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私が生きているところが私の居場所

離婚して家族を看取って一人暮らしになるまで、いつも「ここではないどこか」に行きたかった。
若いころから旅をしたのは、観光や休養のためではなく、ただ逃亡のため。
人生の大半を何かから逃げたいと思って生きてきた。

逝ってしまった家族には申し訳ないけれど「逃げ切った」ような思いがある。
旅をしなくなったのはコロナが流行ったからというのはあるけれど、しなくても大丈夫と思えるようになった。
逃げなくて済むようになったから。

幸不幸は運とタイミングに左右されることも多いけれど、そうであっても自分の人生を自分で選べることの幸せを思う。
居場所は自分で決めていい。
誰のいちゃもんも関係ない。
どこであっても私が生きているところが私の居場所だ。
耐えてきた場所も、置かれた場所から逃げたところも自分の居場所。

「居場所とは」「幸せとは」「愛とは」「人生とは」などの「とは」を一掃して生きる。
「家族」「夫婦」「友人」は「こうあるべき」の意識も捨てる。

昨日思ったことと、今日感じたことは違っていい。
ご都合主義に生きればいいのだ。
私が、貧困といじめにあえいだ少女時代と、結婚という物理的な拘束生活をなんとか生き延びられたのは、たぶん根底にこのご都合主義があるからだと思う。

だから、自分が信頼できる人、自分の好きな人の言葉にしか耳を貸さない。
耳を貸してしまえば、心が拘束され潰れてしまうから。
どんなご立派な訓示や説教にも、心の中で「お前に何がわかる!?」と思っている。
名言が苦手なのはそのせい。
個々の事情にすべてあてはまるようなものは、胡散臭い占い師のコールドリーディングのようなものだと思っている。

腹の中にあるこの黒さを実際に見せることは少ない。
自分の都合でいい人を演じたり、こういうところであえて晒したりもする。
強さも弱さも両方あって、ただその目盛りがどちらかに振れているだけ。
どちらかに無理に修正しようと思わず、いつものご都合主義でいまの自分を肯定することしかしない。
弱い自分も好き。
自分の応援団長は自分。

だから、凹んでいるとき、励まされるのが苦手。
落ち込んでいる人を励ましたいと思うけれども、それも得意じゃない。
こっそりと祈ることしかできない。

今日も風が強かった。
電車遅延が見込まれたので「在宅にします」と職場にチャットを送っていたら、グラグラッと来た。
同時に緊急地震速報がテレビとスマホの両方で鳴って、ついに来たか首都直下とビビった。
ヘルメットをかぶって、財布やら保険証やらの入ったバッグを抱えて、ものが倒れたり飛んで来そうにないところにうずくまって、揺れの収まるのを待った。
結果的にどこも大きな被害がなくてよかった。

マンションのドアの外側に「無事です」という安否確認のマグネットを貼って、隣に声を掛けた。


読んでいただきありがとうございますm(__)m