梅雨入り・朝ドラ・退職
ついに梅雨入りしたらしい。
入梅が遅い年は集中豪雨になることが多いとのこと。
すでに南のほうからは被害が伝わっている。
どうかみんなご無事で。
一昨日と昨日は出勤で7時半に家を出たので、今日のまとめ放送で朝ドラを
見た。
母親のはるさんが死ぬシーンは、あまりにしんどくて目をそらし、それでもしんどすぎてトイレに立った。
ドラマや映画で、大切な人が死ぬシーンで、登場人物と一緒に号泣とかできない。
悲しみに共感どころか、感動とは正反対の嫌悪や怒りが込み上げてきてすごく不愉快になる。
吐きそうになる。
嫌悪や怒りは、書いた人、見ている人に対してじゃなくて、「死」そのもの、「大切な人を奪われる理不尽さ」に対してのもの。
大切な人を何人も看取ってきた身にとって、そのつらさを映像で突き付けられるのは耐えられない。
だから私は、ドラマでは「ナレ死」を好む。
「運命」という言葉は好きじゃない。
「神さま」は、ほぼほぼ信じていない。
亡くなって早々に母親の日記を焼く?シーンに戸惑った。
母と兄の衣類と日用品は死なれた衝撃の勢いで処分したが、日記など本人の字で書かれたものは、手をつけていない。
焼くとか捨てるとか思いもよらない。
私には頼まれても絶対できない。
いまも大切にしまってある。
それとは別の話。
狭量だと思うけれども、私は悪事や非礼の言い訳に「貧乏だった」「孤児だった」「優しさを知らずに育った」「常識や良識を学べなくて無知だった」というのが、あまり好きではない。
単なる好き嫌いの問題なので、スルーされたし。
昔、学園ドラマの定番シーンで、新任教師のスポーツの部活指導を通して不良が友情や優しさを知っていくというのがあった。
子供のころは、夕方4時から再放送をしていて、内職をしながらよく見ていたのだが、いまひとつ納得感がなかった。
この不良たちは、貧乏だったり家庭不和だったりする。
だから不良になるのはやむをえないよね、みたいな前提が面白くない。
内職しながら「非行するひまがあったら働けよ」とか憤慨した。
対立していた同志が、土手の草原で取っ組み合いのケンカをして、ふたりしてごろごろと下まで落ちて大の字にひっくりかえったあと、どちらからともなく笑い出し、親友になってしまうのも得心がいかなかった。
もともと暴力のシーンが嫌いなのである。
殴り合ってスッキリして仲良し、みたいなのは私の感覚からもっとも遠いところにある。
父は、私にこそ手を上げなかったが、ほかの家族や他人にはそうではなかった。
そこに至る暴言や怒号だけで、私は傷つき、震え上がった。
父は悪い人ではないが、酔うと見境がつかなくなる。
その背景に「貧乏」「人の優しさや常識を学ぶ機会がなかった」というのがある。
でも。
だからなんだよ、と私は思う。
そんな言い訳すればすべて通ると思うなよ、と。
痴呆になってからは、私にも手あたり次第ものを投げたが(ハサミでも包丁でも)、これは「自分ではどうすることもできない病気のため」であるから、むしろ全然ゆるせる。
申し訳ないが、道男が寿司屋の見習いになって、メインストーリーから外れるだろう展開にはホッとした。
道男の行く末に対しての安堵ではないところが、私という人間が「嫌なヤツ」であることの証。
今週のあれこれで、そろそろ離脱かもしれないと思っていたが、まあ来週も見るかな。
次の朝ドラはもう見ないことが確定しているし、その次も次も見そうにないので、今期くらいは楽しみたいが、見どころを見失ってしまった感があって、なんとなく気持ちが盛り上がらない。
母の死は史実だからしかたがないとしても、戦災孤児を引き取る引き取らないのエピソードは、私にとっては要らなかった気がしている。
結局、傍聴好きの寿司屋のおじさんをいきなり再登場させて収束するしかなかったわけだし。
昨日は、終業後、7月末で退職する同僚のセレモニーがフロア全体であった。
有休消化するので昨日が最終出勤日。
来月は私の番だと言う声が聞かれたので、必死に「いやいやいやいや、やめてください!」と懇願した。
部内でお金を出し合って買ったプレゼントとか花束贈呈とかスピーチとか絶対要らない!
近しい人だけにこそっとお礼を言って、あとは「いついなくなったかわからない」という感じで消えたい。
「お昼を食べに行きましょう!」
と言ってその場を収めた。
あと、実質1か月。
退職が楽しみでならない。
今朝は、梅雨の中の貴重な晴れ間になるかもしれないので、さほど洗う必要のないものまで洗濯してしまった。
今日はエアコンをつけずに窓を全開している。
思ったより、風が爽やかで気持ちがいい。
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