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母はカーネーションが嫌いだった

本日、マンション管理組合の総会。
19時開催で、終わったのは22時。
去年は理事長だったので、取り決めによって今年は監事。
会計監査報告をしなくてはならないので、委任状とはいかず、やむなく出席した。

去年は、事前の打ち合わせ(根回し?)を十分にしておいたので、所要40分ほどの「シャンシャン総会」だった。
私はそういうタイプだから。

他人の段取りの悪さが大きなストレスになる。
申し訳ないが、今年は仕切りが下手過ぎた。
「それってこういうことですよね」と、まとめたいのを必死に堪えた。

さらに、議案書に書いてあることをいちいち音読する必要をまったく感じない。
学校じゃないんだから。
理解が進まないので議論までも遠い。

事前配布をしてあるのだから、目を通して来るのが当たり前だし、それでついてこれない人は置いて行っていいと思っている。
仲のいい人があとで教えてあげればいいじゃん。
私もあとで個人的に訊かれたら教える。

まあ、みんな高齢化しているからね。
先が思いやられる。
私もこうなるんだよなと思うと、絶望的な気持ちになる。

母が老健に入る5年くらい前まで、毎年カーネーションの鉢を贈っていたが、あるとき急に「私、カーネーションが嫌いやったんや」と言い出した。
痴呆が進んだからなのかもしれないが、これまで気を遣って嬉しいふりをしていたのをやめて正直に「嫌い」と言ってくれたことは、これはこれで良かったような気がした。

それから、花を贈るのはやめた。
カーネーションだけでなく、どんな花も。
世話をするのが億劫になり、目の前でむざむざと枯らしてしまうことへの自己嫌悪。
年を取るってそういうことなのだ。
私も交通事故に遭ってから、命あるものは欲しくない。
私の傷病や怠惰によってほかの命を左右したくない。

そして気づく。
ああ、これって「母の日に何かをしてあげた」という自己満足のためにやっていたんだな。
あるいは、やったという証拠のため。
または、みんながしていることに乗っかって安心したかったためか。
バレンタインのチョコレート商戦、節分の恵方巻と同じように乗せられていただけじゃないかと。
だから「〇〇の日」というのは嫌いだ。
感謝ってそういうもんじゃないよな。

墓じまいをしてから、小さな小さな骨壺を全員分置いた仏壇が、うちのお墓になった。
回忌の法要もしていない。
故人たちが欲しいのは、お経とかお線香じゃないと思ってる。

毎晩寝る前に、今日のできごとについて話しかけていて、月命日には「今日は月命日やね」と写真に言うけれど、1日間違えることもたびたび。
でも、私は家族を愛しているし(そうじゃない部分もあるけれど)、感謝もしている。

そして、私の愛する家族は、そんなことで怒らない。

帰宅一番「疲れたぁー」と、仏壇に愚痴を言った。
夕飯を食べそこなったので機嫌が悪い。




読んでいただきありがとうございますm(__)m