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人生を支えた音楽2

離婚したとき、ほとんどの音楽CD、映画のDVDは夫が持って行ってしまったのだが、何かの拍子に別のところに置き忘れていたものだけが、かろうじて私の手元に残った。

離婚時、現預金は2万円しかなかったが、結婚以来ずっと暮らしてきたいまのマンションがそのまま分与されたことは大きかった。
元夫としては、いまよりうんと広くて快適な実家に戻るので、家具や家電のすべてが不要ということで、古びたそれらを置いていったのだが、とてもありがたかった。
それらは、一昨年から去年にかけてほぼ買い替えた。

私の実家は、2Kのぼろアパートだったから、そこに戻るのであれば、現実の負荷もさることながら精神的にかなりきつかっただろうと思う。
きっと、離職して介護三昧となり、私自身が壊れてしまっていただろう。
同居介護のしんどさは、祖母のときに経験している。
最後の最後まで通いを目指したけれど、母と兄の同時では、最低でも一人は同居して看なければならない。
二人を施設に入れるお金はなかった。

元夫には婚姻中に恋人(私たちの共通の友人!)もいたし、たぶん子供もいたから(私の子は死んだのに)、裁判にすれば慰謝料も請求できたし、年金分割も得られたと思うけれど、私にすれば、念願の一人暮らしが手に入るだけで十分だった。

兄を引き取るまで、通い介護や実家泊まり込みが続いて、ようやく自宅で過ごすひととき、私はいつも唯一手元に残った「西村由紀江」のピアノを聴いていた。
2枚組のCDは、以前、記事を書いていた機関誌に載せるための取材という名目で招待されたコンサートで「お土産」としていただいたものである。

言葉を生業とし、言葉を吐くことでかろうじて精神の均衡を保っていた私だけれど、他者の言葉には(ときに自分のにも)傷つくことがあった。
なんとも身勝手なものである。
けして発信者のせいではない。

離婚はわりとあっさりと成立したが、現実の暮らしは厳しい。
お金もなく、それゆえに仕事の予定もびっしり入れて、加えて人手のない介護が続く。
書いてある言葉は目を背ければ済むが、素敵なメロディに乗って流れてくる言葉は容赦なく耳に飛び込んで、私の心になにがしかの感想を与える。

刺されば痛いし、刺さらなければ物足らない。
だから、人生の後半、記憶にある過去も、置かれている現在も、予想される未来もしんどいものだらけになってから、日本語の歌詞がある曲は聴かなくなった。
フォークソング?やニューミュージック?の歌詞に共感していたのは、自分が若くて、どんなにつらくてもまだ一発逆転の可能性があると思えたころの話。

毎晩、眠る前、それからすこし早く目覚めた朝のベッドの中。
調理や掃除のあいだ。
数えきれないほど、円盤を回転させた。
前向きな(能天気な)歌詞には凹んでしまうけれど、明るいリズムや優しいメロディーは抵抗なく胸に解ける。

テレビを買い替えてからは、youtubeをテレビで流したり、SpotifyをBluetoothで飛ばして、テレビのサウンドバーから出力しているので、CDをかけることはなくなった。
おかげで、バリエーションが広がり、西村由紀江以外の音楽の比重が大きくなった。
でもときどき、youtubeで同じアルバムの曲を流してみる。
涙が出るのは、しんどかった日々が終わったからなんだろうな。

いま苦しんでいる人、闘っている人に言葉をかけるのが苦手だ。
お祝いの言葉ならスッと出てくるのに、励ましのそれは、ついつい口ごもるし、キーボードの手が止まる。

感動も元気も、他者が与えるものではなく、自身が感じるもの。
「私があなたに与えられる」という自信はどこからくるのかと不思議に思うし、その意識自体が私の気持ちを萎えさせる。

だから私は声をかけられないけれど、いましんどいと感じている人にとって、音楽でも絵画でもテレビでも小説でもいいから、何か支えてくれるものがあることを心から願っている。

今朝は久しぶりに、このアルバムのyoutubeを聴いた。
穏やかな朝だ。

連続投稿200日という表示が出た。
その前は、アカウントだけでほったらかしだったから。
いま、ほったらかしている人にも、読むだけじゃなくて、できれば書いてほしいな。
私が求めているのは読者ではなく、同志だから。

連続投稿はまったく意図していないし、できればこの表示が出ることをやめてほしいと思っている。
明日躊躇なく退会できる自分でありたい。



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