『ホントはやなこと,マジでやめてみた』
オンナの本音を描いて“ドイツ版ブリジット・ジョーンズ”と話題になった70万部超の世界的ベストセラーが、2020年10月、ついに日本上陸!
じつはムカついてる友だち
ダレ得!?などうでもいい仕事
めんどうで不毛なSNS
むなしいダイエット・・
1秒でもはやく、こんな人生のおジャマ虫たちから「自分のための時間」を取り返さなきゃ!――
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はじめに
「ムカつくアイツ」との縁をバッサリ!
人生最高の瞬間は、突然おとずれた
そもそものはじまりは、女友達のカトリンに「くたばっちまえ!」って告げたことだった。
……いや、ちょっと言い訳させてほしい。
わたしは基本、他人にそんなこと言わない。
くたばっちまえとか、そんな人様の絶命を願うような下品な言葉をやたらと連呼するタイプじゃないので。
いついかなるときも。
……車の運転中は、まあ別として。
でも、カトリンって人は――これは声を大にして言いたいのだけど、彼女はよくいる例の、あのタイプの女性だった。
ほら、いるでしょ?
話してると常にこっちが悪いみたいな空気になって、その罪悪感に微妙につけ込んでくる人。
グチってばかりで自分では何ひとつ変えようとしない人。
紙パック入りのジュースをチュウチュウ吸う子供みたいに、こちらの気力を吸い取っていく人。
カトリンはいつだって不幸のどん底にいた。
その言い分がホントなら、「この人、うつ病なんじゃ……」と心配になるところだ。
でも、わたしにもだんだんとわかってきた。カトリンはうつ病なんかじゃなく、ただの「ザンネンな人」なんだってことが。
本人いわく、人生はつらいことばかり。
仕事は最悪だし、恋人のジャン=クロードとの関係はいつだって「もうムリ!」、家族はやっかいごとばかり押しつけてくる。
将来には何の希望もないし、もうどうしたらいいかわからない――。
そんなグチを聞かされて、心配してあげてるわたしをよそに、当の本人はクルージングを楽しみ、パーティーなんか開いちゃったりして、あげくのはてにジャン=クロードと結婚したのだ。
この前だってそう。
「もうダメ、離婚寸前なの……」と落ち込んでるカトリンをかわいそうに思って、いろいろと相談に乗ってあげた。
で、彼女とジャン=クロードがヴェネツィアに小旅行に出ている間(ちなみに、これはわたしのアイデアだった。
夫婦ですてきな時間を過ごしてみたら?って勧めたのだ)、わたしはせっせと彼女の飼ってる犬の世話をして植物に水をやり、プールに除菌用のプールソルトを撒いていた。
ちなみに、カトリンの家はけっして「ちょっとそこまで」って言えるようなご近所じゃない。
しかもこれが、とんでもない豪邸。
インテリアもモダンで、これでもかってほど高級感が漂ってる。
細い両肩にのしかかる「経済的負担」とやらをあんなにアピールしていたのは、いったい何だったわけ?
カトリンが言うには、「あたしって、この世に生きるには優しすぎるんだわ」。
だから、たとえばリフォーム業者の職人さんにも正規の料金を払っちゃうのだとか。
なかなか契約しないでじらしたあげくに、半額に値切ることだってできたのに――。
「でもほら、あたしって人がいいでしょ?
だからつい『そんなのダメ、この人にも家族がいるのよ』って考えちゃうの」カトリンは聖母マリアのような目をして、そうのたまった。
ヴェネチア旅行から帰ってきた彼女は、何だかせわしなかった。
ジャン=クロードを車でマッサージサロンまで送らなきゃいけないとか言って。
なんでも、ヴェネチア旅行で泊まったホテル(わたしが勧めたところだ)のベッドがサイアクで、彼が背中を痛めたんだとか。
ちなみに旅行は(例によって)散々で、それでも彼女はけなげに明るく振る舞おうとがんばった、らしい。
その次に会ったときは、「ママが病気なの……」と、まるで明日にでも死んじゃうみたいな震え声で聞かされた。
要するに、カトリンにはいつも「何か」が起こるのだ。
それはきまって人生を揺るがすような一大事で(彼女的に、ここは絶対に譲れないライン)、でもよくよく聞いてみたら、お母さんの「病気」は実はただの頭痛だったり、腰に水が溜まってたり、その他こっちが「知るか!」って言いたくなるようなどうでもいいことだったりする。
おわかりだろうか、このお決まりのパターン。
いつだって同じだ。カトリンの世界は、ひたすらカトリンを中心に回ってる。
そのうち、わたしにもはっきりわかってきた。
一緒になってカトリンの周りをぐるぐる回ってあげるなんて、まっぴらごめん。
だってわたし、あんたの衛星じゃありませんから。
なぜもっと早くカトリンと縁を切らなかったのか、自分でもうまく説明できない。
一緒に暮らしてるパートナーの〝L〟からも、だいぶ前から「さっさと絶交すればいいじゃん」って言われてたのに。
思えば最初のうちは、カトリンにうまく利用されてるだけって気づいていなかったんだ。
そして、そのことに薄々気づきはじめてからは、今度は彼女と正面からぶつかるのを避けてきた。
でも、少し前に『幸福プロジェクト(Glücksprojekts)』(未邦訳)という本を書いて、そのなかで「生き方改善」を進めていくうちに、ついに心に決めた。カトリンは切る、と。
わたしはこれまで友人と縁を切ったことなんてない。でもフツーに考えて、流れはだいたいこんな感じだろう。
「最近、なんか一緒にいても楽しくないな」とお互い感じはじめて、会う頻度がだんだん減り、そうして連絡が途絶えていって……ついにはフェードアウト。
ところが、相手が吸血ヒルなみにしつこい友人となると、そうはいかない。
なにしろこの手のタイプはしつこいから、そう簡単には振りきれない可能性が大だ。
そんなわけで、わたしはこの縁切りミッションをいかに完遂すべきか頭を悩ませていた。
しかもできれば、気まずさのあまりにミミズみたいに床をのたうちまわったりしないですむ方法がいい。
Lのアドバイスは単純明快だった。
「別に、ただ会って言えばいいじゃん。
『カトリン、あんたすごくムカつくから、もう二度と会いたくない』って」そこまで言うと、Lはちょっと考えてからこう付け加えた。
「『このメス豚が!』」。
Lは前々からカトリンのことが嫌いなのだ。
実際にそんなふうに言える図太い人も、世の中にはいるんだろう。
でもわたしは違う。むしろ正反対。
通りでぶつかってきた相手には逆に謝っちゃうタイプだ。
となると、気まずい思いをしないためにはどうしたらいいか……。
悩んだすえ、いくつか別の案を考えてみた。
・Lを代理人として派遣する
・カトリンにはわたしが非業の死を遂げたとでも思わせておいて、どこか別の土地で人生をやり直す
・ガチで非業の死を遂げる
だが、やがて決定的瞬間は訪れた。
そのとき、わたしはちょうどカトリンとカフェにいた。
ラッキーだったのは、彼女があまりにもクソだったので、こみ上げる感情をそのままぶつけることができたってこと。
怒りの波に乗って、わたしはその歴史的瞬間を迎えた。
「カトリン?」
「なあに?」
「くたばっちまえ!(F××k you!)」
それくらい別にたいしたことないじゃんって思う人もいるかもしれない。
でもそのときのわたしは、身長二メートルのジャンヌ・ダルクになった気分だった。
そのまま席を立ち、カフェの出口に向かう。
まるで、スローモーションでリングに向かうボクサーみたいに、トランペットやら何やらを総動員した感動的なBGMを背に、わたしは退場をキメた。
きわめつけにコートの裾をばさっとはためかせたもんだから、近くの棚にのっていたビラの束が派手に吹き飛ぶ。
とばっちりを受けたビラがひらひらと床に舞い落ちるなか、わたしは顔を高く上げ、外に歩み出た。
そのまま店先で待つ愛馬の背に飛び乗って、さらなる冒険の旅へ――なんて西部劇みたいな展開になっても不思議じゃない勢いで。
「はあ? なんでジャンヌ・ダルクがボクサーになるわけ?」その晩、わたしの報告を聞いていたLは呆れ顔でそう言った。
まったく、男ってのはホントに人の話を聞かない。
耳の中になんか変な雑音でも流れてるんだろうか。たまたま聞こえた単語を一つ二つ組み合わせて、あとはテキトーに聞き流してるんじゃないかと思うほど。
だから、そのたまたま拾った単語が意味不明だと、とたんに話が見えなくなっちゃう。
もちろん、わたしが訴えたかったのは、フランスの国民的聖女の話でも、ボクサーの話でもない。
それどころか、カトリンや彼女のクソったれの海水プールの話ですらなかった。
「くたばっちまえ!」っていうあのひと言に、どうしてあんなにワクワクしたのか――大事なのはそこだ。
「それって、自由になれたからじゃない?」スピリチュアル好きの友人アンネは、わたしの話を聞いてそう言った。
たしかに、アンネの言うとおりだと思う。
あれは解放だった。
ただし、カトリンっていう「ザンネンな人」から解放されたから、っていうのとはちょっと違う。
あのとき感じた、トランペットが高らかに鳴り響くハッピーな高揚感。
それはわたしが自分で自分に課してきた、ちっぽけで息苦しい制約から解放された喜びだった。
自分が正しいと思ったことをする。
「こんなことしたらイヤなやつだって思われないかな」なんていっさい考えずに。
それって最高じゃない?
人間、いつだってそうすべきなんじゃない?
ただ心のままに生きてみたら、どんなに爽快だろう?
そして――心のままに自由であることと「ムカつくやつ」になることの境界線はどの辺にあるんだろう?
なぜ私たちは「やりたくもない事」に
時間を使ってしまうのか?
それからの数週間で、いろいろと気づいたことがある。
まず、カトリン抜きの人生がいかにすばらしいかってこと。
それから、日常のいろいろな場面で、わたしがいかに「自分がどうしたいか」じゃなく「他人がどう思うか」を基準に行動してたかってこと。
たとえば毎朝、子供を保育園に送るだけなのにバッチリ化粧をしたいなんてマジで思ってる?
答えは「冗談じゃない、断然ノー!」。
じゃあどうして、毎朝化粧をするわけ?
すると、しょうもない答えが見えてくる。
「ママ友のみんなにいい印象を与えたいから」。
ママ友なんて九割方、好きでもなんでもないくせに!
好きっていえば、どうしてわたしは職場のクリスマスパーティーに毎回参加しちゃうんだろう?
上司や同僚が大好きだから?
……んなわけない。
それに、真夜中に人のスマホを大人のオモチャかってくらいバイブさせる、あのいまいましいLINEグループ。
なんで、あんなグループにいまだに参加してるんだろう?
考えれば考えるほど、確信は深まっていった。
そう、わたしはずいぶんとたくさんの時間を、自分が好きでもない人と、行きたくもない場所で、やりたくもないことをするのに使ってるのだ。
それって、サイテーじゃないか。
あれこれ考えているうちに、わたしの中でとある計画がムクムクとわきあがってきた。
カトリンをわたしの人生から追い出しただけで、あれだけ突き抜けてハッピーになれたのだ。
だったら、似たようなことは全部やめてみたら?
自分が心から望むことだけ残して、それ以外はすべて捨てちゃう。
そうしたら、いったいそこにはどんなに幸せな人生が待っているんだろう?
たとえば、職場で同僚から飲みに誘われたときにこう答えられたら。
「ありがとう、でも、仕事帰りに一杯やるのはやめとくわ。ううん、『今日はやめとく』じゃなくて、基本そういうのはしないことにしてるの」。
このほうが、毎回苦しまぎれの言い訳をでっちあげては、後日ウソがバレないように気を使うより精神衛生上ずっといい。
だって、下手したらこんな感じで即バレだもん。
「そういえば、妹さん、もう大丈夫?」
「え? 妹なんていないけど?」
ホント、よくある話だ。
「……というわけ。わかる?」その日の晩、わたしはキッチンで野菜をサイの目切りにしているLに自分の計画を説明した。
「うーん、まあね」Lの答えは歯切れが悪い。
「たださあ……その計画って、結局は思いやりゼロのエゴイストになろうってことじゃないのか?」
「はあ? 違うってば」と否定はしてみたものの、たしかにLの言うとおりだ。
この「自分解放計画」には、少なからず「ムカつくやつ」になりさがる危険がある。
でも大丈夫、絶対うまくやってみせる。
わたしはやる気まんまんだった。
輝かしい人生はもうすぐそこ。
自分の時間と労力(それに、お金も)を、自分が楽しいと思えること、楽しいと思える人、楽しいと思えるシチュエーションにだけ使うんだ。
そうしたら、どんなに幸せだろう!
「ね、おまえもそう思うよね?」息子にそう言ってみた。
息子はちっちゃな両腕を広げて、わたしの脚にぎゅっと抱きつく。そうして、高らかに言った。
「チョコレート!」またか。
それは息子の最近のお気に入りワードだった。
そう。チョコレートだ。
人生はもっとたくさんの自由や、ゆとりや、自分の意志、それにチョコレートとともにあっていいし、逆にカトリンみたいなザンネンな人や、クソみたいなLINEグループや、職場の飲み会はもっともっと少なくていい。
そう思っているあなたは、この本を手にとって正解だ。
この本が、そういう「いらないもの」を華麗にスルーするためのヒントや後押しになればうれしい。
というわけで、ここからの章では、こんなことを学んでいこう。
・何かや誰かを上手に「スルー」する方法
・それでいて、他人から「ムカつくやつ」と思われてスルーされない方法
・自分にとって大事なこととそうでないことを見きわめる方法
・人生の質を大きく変える、ちょっとした決断について
・上手に「スルー」するための、アホみたいなイメージトレーニング
・わたしが実際にいろんなものを「スルー」するうえで踏んできた数々の地雷について
ひとつ、ぜひ常備しておいてほしい、とても役に立つ心得がある。
何かやりたくないことが目の前にあって「あーあ、自分が心からやりたいこと以外、やりたくないな……」って思ったとき、わたしはいつも、実際にそうしている人を思い浮かべることにしている(息子もその一人だけど、幼児だから除外で)。
その人の名は、〝マックス〟。
マックスは十代の頃からの友人で、今ではものすごい勝ち組ビジネスマン。
身長が二メートル五〇センチぐらいありそうな堂々とした魅力たっぷりの男なのだけど、彼はとにかく、自分がやりたいこと以外は絶対にやらない。
LINEグループ不参加は言うまでもないし、会社のクリスマスパーティーだって、顔を出すのは気が向いたときだけ。
それでいて部下からはいつも人気があって、友人も多いし、すてきな家庭ってやつを築いてる。
マックスは、他人の引っ越しの手伝いはしない。付き合いで友人の詩の発表会に行くこともない。
たとえ何百回頼まれても。
でも、それで何の問題もない。
彼はそういう人だし、みんな変わらず彼のことが好きだ。
たとえば「悪いんだけど、ちょっとこの書類をチェックしてくれる?」と頼まれたら、わたしなら、ほぼほぼこう答えちゃう。
「もちろん。見せて?」それで結局、自分の時間がなくなって、ストレスを溜め込み、あげくのはてには自分で自分に腹を立てることになる。
これがマックスなら、書類のチェックをお願いできるかと聞かれても「いや、だめだね」のひと言。しかも、それで何の支障もない。
彼は自分の時間を好きなように使えて、ストレスもゼロ、自分に腹を立てるなんてこともない。
そのうえ、それだけはっきり断っても相変わらず人気がある。
だって、それでもやっぱりマックスはとびきりいい人だからだ。
今回いろんなものを「スルー」するうえで、マックスには何度も助けられた。
あやうく屈しちゃいそうな場面ではいつも、「こんなとき、マックスならどうするだろう?」って想像してみた。
すると、あの体感二メートル五〇の堂々たるマックスが、わたしの横に立っているような気分になる。
そうして、こうささやいてくれるのだ。
「いやあ、君は絶対そんなことしない、そうだろ?」。
あなたの周りにも、そういう人っている?
いるならぜひ、頭の中であなたの横にいてもらおう。
「そんな知り合いいません」っていうなら、わたしのマックスを貸してあげる。
さあ、これで準備OK。さっそく始めよう。
【 第1章 「自分」について 】
■外見を、スルーしてみた
■捨てられない物を、スルーしてみた
■スレンダーボディを、スルーしてみた
■自分磨きを、スルーしてみた
■外見を、スルーしてみた
〝まつ毛バッチリ〟にするくらいなら、ソファーでスマホをいじっているほうが幸せだ
「自分」というテーマを最初に取り上げるのは、ある意味すごく自然なことだ。
だって、わたしたちは常に心のどこかで漠然と「もっと〇〇な自分にならなきゃ」と思いながら生きている。
ヒップはもっときゅっと小さく、だけど預金はもっとたっぷり。もっと自分に自信を持って、恋愛だってもっと大胆に。
それに毎日運動もしなきゃ――。
というわけで、まずはこの話題からいこう。
そう、自分の「外見」について。
外見っていうのは、ほんとにめんどくさい代物だ。今でも覚えているのだけど、あれはまだ十代の頃、母と二人で歩行者天国を歩いていたとき。
ぶらぶら楽しく歩いていたら、母が急に立ち止まって呆然とした顔でわたしを見つめた。
――うららかな昼どきの歩行者天国で、母は唐突に気づいたのだ。
すれ違う男性たちの目が、自分ではなく娘のわたしに向けられるようになったことに。
パチンと、まるでスイッチでも切り替わったみたいに。
それを聞いた当時のわたしは、てっきり母が落ち込んでいるんだと思った。
でも、実はまったく逆だった。
最初の驚きが消え去ると、母はすっかり上機嫌になった。
「これでやっと肩の荷が降りたわ」って、にやっと笑って。
当時まだティーンエイジャーだったわたしには、まるで意味がわからなかった。
異性から見向きされなくなることの、何がそんなにうれしいの?
それって、一番大事なことなんじゃないの?
あーあ、自分もいつか母みたいなオバさんになっちゃうんだろうか。
そしたらどうか、その頃までには技術が進んで、せめて外見だけは若さを保てる時代になりますように――。
そして、現在。
じっくりたっぷり鏡とにらめっこしたうえで、確実に言えることは――そんな技術は夢のまた夢ってこと。
でもそのかわり、今のわたしには当時の母の気持ちがわかる。
あのとき、にぎやかな街の歩行者天国で母が肩から降ろした重荷は、母自身が背負ったものだった。
母もまた「美人ですてきな自分」っていう理想の自己イメージにむりやり自分を合わせようと苦心していた。
それって、すごく骨の折れることだ。
しかも、歳をとればとるほどに。
やがてどんなに努力してもムダになったところで、母はようやくその苦行から解放された。
「アタシはもうイチ抜けたから」って感じで、ソファにふんぞり返れる人生になったってわけ。
一方、わたしはまだ「イチ抜け」できる年齢じゃない。
だけどもし、あえてイチ抜けてみたら?
慌ただしい月曜の朝にありったけの小道具を駆使して自分をきれいに見せようと悪戦苦闘したりせず、ゆったりソファでくつろげる暮らしが手に入ったら……?
それは、あまりにも魅力的な想像だった。
わたしたちは、他人のために「きれい」になろうと努力する。いつだってそう。
あのアイライナー+マスカラ+コンシーラー+パウダー+その他もろもろの完璧メイクを「自分のためにやってるんですけど!」って主張する人もいるかもしれない。
でも、たぶんその根底には、やっぱり他人への意識があるわけで。
そうやって完全武装することで、自信をもって他人や世界に向き合える、そういう感覚が心のどこかにあるんだと思う。
それはそれで大事かもしれないけど……それってつまり、パン屋の店員や、同僚や、電車に乗り合わせた赤の他人や、社食のおばちゃんや、保育園のママ友や、スーパーのレジ打ちバイトさんからの評価が気になるってことだ。
礼儀正しさでも、仕事ぶりでも、購買力でも、食事マナーでもなく、「自分の見た目」に対する評価が。
もちろん、毎朝ドラァグクイーンみたいにバッチリきめたい!っていう人はそれでいい。
でも「同僚の□□さん(または、保育園の△△君のママ)に今日のまつ毛をどう思われるかなんて、別に関係なくない?」と自問してみて「ですよね!」と強く思ったなら、毎朝コテコテに化粧するのはやめてみるのもアリだ。
脚のムダ毛処理だって。
そしたら、うっかり手が滑ってバスルームが血の海に……なんて慌ただしい朝とはおさらばできる。
かわりに、ゆったりコーヒーのおかわりなんかして。
なんならソファーに丸まってスマホでパズルゲームの「キャンディークラッシュ」をもう一ラウンドできちゃうかもしれない。
なにそれ、最高すぎる。
ノーメイクでパン屋に行くだけで 予想もしない快感にひたれるなんて…
翌日、日曜日の朝。
わたしはさっそくこの計画を実行に移してみた。
ボサボサ髪にノーメイク、ヨガパンツにダボダボのTシャツに手にはゴミ袋という、ご乱心時代のブリトニー・スピアーズなみの恰好で玄関を出る。
これであとは街路樹の陰にパパラッチでも隠れてればカンペキだ。
激安スーパー近辺をうろつくアル中のホームレスに間違われても困るので、首には念のためオシャレなスカーフを巻いてみた。
目的地のパン屋に到着するまでの間に、すでにものすごい発見があった。
……なんだこれ、全然イケる。
予想に反して、「ひどい身なりで出歩いてる」っていう不安や気まずさはこれっぽっちも感じない。
それどころか、むしろ貴婦人気分だ。
自信に満ちて毅然とした気高い女性。
メイクなんかしなくても、その存在感だけでキラキラオーラを身にまとうキレイ女子。
そう、マスカラなんかいらない!
みんな、わたしを見て!
何かをとっぱらっただけで、こんなに気が大きくなるなんて。
身長三メートルくらいになった心持ちで、わたしはパン屋のドアをくぐった。
ああ、なんかもう店じゅうを練り歩いてクイーンのフレディ・マーキュリーばりに高貴なお辞儀をキメてまわりたい気分――おっと、レジの順番がきた。
こうしてわたしは、生まれてはじめてパン屋の店員さんより上機嫌に会計を終えたのだった。
ウキウキで帰路につき、家人から不審者に間違われて門前払いされることもなく無事帰宅したわたしは、次なるステップに移ることにした。
作戦第二段は「何もしないで職場に行くこと」。
わたしはふだん在宅勤務も多いのだけど、出社しなきゃいけない日もそこそこある。
勤め先は広告代理店だ。
ご存じの方もいるかと思うが、広告代理店のオフィスっていうのは、とにかく何から何までオシャレで、モダンで、これでもかってくらいクールぶってる。休憩室にはお値段も重量も軽自動車くらいはありそうなコーヒーメーカー。
トイレにはレモングラスの香り漂うハンドタオル。
果物とミニチョコの載った小じゃれた小皿がオフィスのあちこちにさりげなく置かれてたりする。
やたらとガラスやメタルを多用したインテリアのせいもあって、どこもかしこもピカピカのキラキラだ。
「大切なのは中身」って言葉がこれほど似合わない場所もない。
いや、もちろん社員は違いますよ?
だけど社員は社員で、そんな環境にふさわしい装いを心がけていた。
要するに、誰もかれもがオシャレで、モダンで、これでもかってくらいクール。
ちなみに、サブカル系のオシャレ男子にありがちな黒縁メガネや、おしゃれヒゲや、ツーブロックや、ダルっとしたニット帽や、その他「えぇ……それほんとにおしゃれ?」って聞きたくなるような謎アイテムは、だいたい起源をたどれば広告代理店発祥だったりする。
そんな場所に、わたしはこれから「裸一貫で」乗り込もうとしてるわけだ。
まあ、最近ヌードルックとかいうナチュラル系メイク(ナチュラルどころか、今回のわたしはドすっぴんの予定だけど……)も流行ってるし、何とかなるでしょ。
「あっはっは、ヌードか、いいね」その晩、Lはそう言って大ウケしていた。
わたしは「あはは」とカラ笑いで応じて、Lの横っ腹をつねってやる。
「いや、でも実際いいんじゃないか?それなら見た目が地味になるだけだし、ぼくも朝あまり待たずにフロに入れるしさ」Lはそんなこと言って満足げだ。
でも「地味めのナチュラル系」=「ノーメイク」だなんて信じてるのはシロウトだけ。
知らない人のために説明すると、ナチュラルなすっぴん風にみせるには、かなりの大仕事が必要になる。
まず、メイク下地をメイクブラシにとって、鼻すじから顔のきわに向かって丁寧に広げる。
髪の生え際あたりはほどよくぼかして。
次に透明感を演出するフェイスパウダーを大きめのブラシにのせて、円を描くように顔全体に。
それから斜めカットの眉用ブラシとブラウン系のパウダーで自然な眉のカーブを演出。
もちろん、崩れ防止にアイブロウジェルは必須。
お次はアイメイクだ。
まぶた全体にアイシャドウベースをのせたら、アイホールに明るいブラウン系アイシャドウを入れて、二重部分は濃いめのブラウンで引き締めて。
上まつげの際にリキッドタイプのアイライナーですっと細い濃茶のラインを引いたら、今度は細筆とアイシャドウで下まつげの際に同色のアクセントを。
さらに、上下のまつげにロングタイプかボリュームタイプのマスカラをさりげなくオン。
ファンデよりワントーン明るいコンシーラーで目のクマをカバーしたら、できるだけナチュラルなチークを頬骨にそって軽くぼかして。
仕上げに薄づきのグロスかマットなリップで唇に自然な赤みをプラスして――これで完了。
思ったとおり、Lは愕然としていた。
「……ウソだろ?」とすがるように尋ねてくる。
ところがどっこい、これが厳しい現実なんだな。
でも今回、わたしはこの「ヌードルック」を思いっきり文字どおり解釈して、完全なるノーメイク出社をキメようと計画していた。
といっても、さすがにヨガパンツはまずいので、下だけはジーンズにしとこう。
親友ドレーゼルにもらった
強烈すぎる本音
「だったら、とことん徹底しろよな」翌朝、一応最終チェックをと玄関先の鏡に目をやりかけたわたしに、Lはそう釘を刺してきた。
その日、わたしは実にゆったりした幸せな朝のひとときを満喫していた。
のんびり朝ごはんを食べて、息子をハグして、窓を開けて「うーん」とひと伸び、鼻歌なんか歌っちゃったりして。
しかも「キャンディークラッシュ」を二ステージもクリアできたし。
もう最高。
いつもみたいに大半の時間をバスルームに引きこもり、クローゼットをひっちゃかめっちゃかにして、最後に慌ただしくコーヒーを一口(山火事にバケツで水をひっかけるみたいに)流し込んでバタバタ出かける朝とは大違い。
シリアルの小皿片手に玄関先まで見送りにきたLは、そんなわたしにこう言い放った。
「外見なんて気にしないんだろ?だったら出かける前に身だしなみチェックする必要もないじゃん。ほら、鏡を見ない!」
……クソ、たしかにLの言うとおり。
心の底から「見た目なんてどうでもいい」と思っていたら、鏡なんて見なくていいわけで。
気づけば結局、わたしは性懲りもなく頭の中で「すてきな自分」を想像していたらしい。
ラフなスタイルでロサンゼルスの街角を闊歩し、フィットネスジムに向かう休日のハリウッド女優みたいな自分。
サングラスに、ざっくり手ぐしでまとめた無造作なポニーテール。
ルーズなおくれ毛がさりげなく、でも華やかで――。
うん、「外見なんてどうでもいい」なんてウソだった。
要は目指すイメージが「バッチリおしゃれなわたし」から「ラフで無造作なわたし」に変わっただけじゃん。
いいだろう、なら玄関先の鏡からOKサインをもらうことなく出かけてやろうじゃないの。
「……あ、でも歯の間に何かはさまってたら教えて。あと、髪がアンテナ状態だったりとか」
「りょーかい」Lはニヤニヤ顔だ。
このハッタリなのかそうじゃないのか判別しかねる表情、ほんとムカつくな。
職場に向かう間は、停まってる車の窓ガラスで自分の姿をチェックしないようにするのに必死だった。
人ってなんでこうアホみたいに、ついつい自分に目をやってしまうんだろう。
日曜日のパン屋のときとは違って、クイーンばりの高貴なお辞儀をふりまく気分にはとてもなれなかった。
むしろ、めちゃくちゃ居たたまれない。
わたしは極力目立たないようにコソコソと階段を上がり、通路を抜けて、オフィスにすべり込んだ。
ああもう誰よ、広告代理店のオフィスはどこもかしこもガラス張りにすべしなんて決めたヤツは!
「おはよ」同僚のエヴァ・ドレーゼルに小声で挨拶しつつ、(どうか何も気づかれませんように)と心の中で祈る。
「やだ、何それ、どうしたのよ?」
……あ、だめだ。祈りは通じなかったっぽい。
「別に? そんな、毎日毎日バッチリきめて出社しなくてもいいでしょ」わたしは言い返しつつ、「ちょっと大きめだけど別に気にしてません」風ジーンズをつまんでみせた。
「まあね、もちろん」そう答えるドレーゼルはやけに楽しげだ。
……楽しげっていうか、今もしかして失笑された?
「ちょっと、なに今の?え? そんなにヤバい? ねえ、教えてってば!」
わたしは一気に弱気になって必死にせがんだ。
そして、今回の「外見なんてスルー計画」について洗いざらい白状したのだった。
「……というわけ。で、どうなの? そんなにヤバい?」すがるように訊くわたしに、ドレーゼルは「マジレスしてほしい?」
「お願いします!」わたしは激しくうなずいた。
「じゃ、マジレスするけど――
今まで見たなかで一番ヤバいわ、それ」
バッサリひと言で切り捨てられた。
「二〇一二年の忘年会のアレを上回ってるわね」。
は? ……いやいや、それガチでヤバいやつじゃん!
秒でトイレに駆け込んだわたしは、ドレーゼルに完全同意せざるを得なかった。
「……うん、ないわ」鏡に映った自分にうなずきかける。
だって、あまりにもイタすぎて。
だらしなく腰に引っかかったジーンズは、「ゆったり無造作なボーイフレンド・デニム風」っていうよりも「激安酒店の前にたむろする浮浪者風」。
頭のてっぺんから垂直に突き出たアンテナみたいな寝ぐせのおかげで、浮浪者感がさらにアップしてる。
……Lのヤツ、あとで絶対シメる。
トイレまで付いてきたドレーゼルは、わたしの寝ぐせを指でつまんで「ピコーン、ピコーン」って揺らして遊んでるし。
ひとしきり遊び倒したのち、彼女は「ほら、直してあげるから」とメイク落としシートを取り出して、頬にべったりついてた息子のチョコ付きキスの跡を拭きとってくれた。
どうして「職場でノーメイク」は撃沈したのか
頼もしいドレーゼルが(彼女の力のおよぶ限りで)がんばってくれている間、わたしはぐるぐる考えていた。
なんでパン屋では全然オッケーだった装いが、広告代理店では通用しないんだろう?
この恰好で職場を歩き回るのが、なんでこんなに恥ずかしいんだろう?
ほっぺたにチョコつけたまま出社しちゃって、恥ずかしい!ってだけの話ではない気がする。
じゃあ、なんで?
パン屋の店員より職場の同僚の目のほうが気になるから?
シナモンロール相手なら、どんな恰好でもへっちゃらだから?
浮浪者ルックじゃ「仕事のできる女」って感じがしなくて、自信がもてないから?
ううん、違う、そうじゃない。
原因はたぶん、もっと別のところにあるんだと思う。
つまり……うちの職場では、誰もがパリッと小ぎれいに装おうと努力してる。
なぜかというと、それが暗黙のルールだからだ。
これって、たとえばオペラを観にいくときと似ている。
聴衆は美しく着飾って歌劇場に足を運ぶわけだけど、ぶっちゃけお客が正装だろうが普段着だろうが、オペラ自体の出来にはこれっぽっちも影響ないわけで。
歌手の声の良し悪しも、舞台美術も、演出も、別に変わらない。
だから本来、聞き手の服装はジーンズだろうが作業着だろうが、はたまた短パンだろうが、何だってかまわないはず。
それなのになぜ、お客は正装で歌劇場を訪れるんだろう?
タキシードにポマードできめる男性陣に、イブニングドレスで着飾った女性陣。艶やかなエナメル靴に、キラキラ輝くジュエリーに、高級バッグ……。
それはきっと、そういう装いも「オペラ」の一部だからだ。
オペラそのものって意味じゃなく、「歌劇場にオペラを観にいく体験」の一部っていう意味で。
劇場ロビーで飲むシャンパンや、天井を飾るシャンデリアや、見渡すかぎり続くビロードの赤絨毯だってそう。
そういうもの全部をひっくるめたものが「オペラ」で、それはわたしたちに不思議な魔法をかけてくれる。
ほら、あの歌劇場独特の神聖な空気――あの空気があるからこそ、聴衆はしゃきっと正装して劇場に「足を運ぶ」わけ。
普段着でだらしなく「転がり込む」なんて、けっして許されない。
そんな場所にうっかりジーンズで出向いてしまった輩は、せっかく正装して劇場に集まった人たちの「何か」を台無しにしてしまう。
期待に胸をふくらませて美しく着飾ったり、バスルームで鏡に向かって一生懸命にヘアセットしたり、そういう周囲の人たちの努力を、そいつは意図せずあざ笑ったも同然なわけで。
だから、気まずい空気になっちゃう。
もちろん、広告代理店のオフィスはオペラ歌劇場とは違うけれど、それでも一種の「舞台」だという点は同じ。
そこで働く社員たちは、その舞台を毎日くり返し演じてる。
なのにわたしは、そういう場所に「外見なんてスルー」な装いで乗り込んでしまった。
だから、みんなが演じている「場」をぶち壊してしまった感じがして、気まずかったんだ。要は「空気読めてなかった」ってこと。
……と、あれこれ考えているうちに、ひとつ気づいたことがある。
わたしがスルーすべきは「外見そのもの」じゃなかったんだ。
大事なのは、「こういう外見でいなきゃ」っていう思い込みをスルーすること。
――よし、そうとわかれば来週の同窓会には、めいっぱい着飾って登場してやる。
昔玉砕した初恋の人に、目にものみせてやるんだから!
というわけで、外見スルー計画はあきらめたわたしだったが、ゆったり過ごす朝の時間はその後もなんとか死守している。
ま、そのために定期的に総額一万円近くはお財布から出ていっちゃうんだけど。
ちなみに、何にそんなに費やしたのかというと……
・シャネルのリキッドファンデ
・ボビイ ブラウンのアイペンシル
これが、わたしの新しい相棒たち。
お値段はだいぶ張るけれど、その効果ときたらもう魔法みたいだ。
この二つさえあれば、いつでもなりたいときに、たった五分でささっと「キラキラなわたし」になれる。
で、この「なりたいとき」っていうのが、意外とひんぱんに訪れるんだよね。
■自分磨きを、スルーしてみた
「努力すれば理想の自分になれる」は嘘!
無理してもロクな結果にはならない
人は人生のある時点で「ああ、水着の似合うスレンダーボディなんて、自分にはもう何の役にも立たないんだな……」って悟るわけだけど、この時期さらに苦い現実に気づかされることがある。
たとえば、わたしの場合は「このぽっこりお腹とは生涯おさらばできないっぽい」と悟ったのとほぼ同時期に、もうひとつ別のことにも気づいた。
「わたし、たぶん一生だらしないままだな」と。
これから先もきっと、わたしは確定申告をぎりぎりに済ませ、前もって用意しときゃいいのに毎年毎年クリスマス・プレゼントの調達に追われ、女友達と飲んだ夜はついついタバコに手がでちゃうんだろう。
健康に悪い?
言われなくたって知ってるわ!
昔から、自分の嫌なところや悪い習慣をならべた「直したいことリスト」をつくってきた。
ホントにしょうもない、ぐだぐだと長ったらしいリスト。
そこには、Lに「直してほしいこと」も含まれてた(本人的にはめちゃくちゃ心外らしいけど)。
以前のわたしは生活改善への意欲に燃えまくっていて、そんなわたしの「直したいこと」リストから逃れられたのは、犬と息子だけだった。
犬にはどんなに言ってもムダってすでに思い知らされてたし、息子の場合は「しつけ」っていう形でまた別のリストを用意してたので。
がんばって努力さえすれば、いつかきっと理想の自分になれるはず――以前のわたしはそう信じていた。
ヨガやピラティスに定期的に通って、朝市で健康にいい旬の食材を買って。
「とりあえず三メートル先から蔵書すべてぶち込みました」みたいなカオス状態の本棚だって、いつかきっと片づくはず。
クリスマスは準備万端で心穏やかに迎え、息子とクリスマスソングなんか歌いながらクッキーを焼いたりして。
プレゼントに飾りつける天然の松ぼっくりもばっちり用意して、ネットでラッピング方法をのんびり検索――。
そんな暮らしが、いつかきっと訪れるはず。
ちなみに予定では、その頃には毎夜Lと二人で「上質なひととき」を過ごせてるはずだった。
ロマンチックなムードの中、熱烈に愛の言葉をささやくL。
わたしはちょっと困り顔で「やだ、もう……ここレストランよ? 周りに聞こえちゃう」なんて微笑んだりして。
そう、これよこれ。
これこそ、わたしの本当の人生なんだから。
それが現実になるその日まで、なんとかがんばらないと――。
思えばあの頃のわたしは、完全に「はらぺこあおむし」状態だった。
お菓子やリンゴやチーズ入りパンをせっせと食べて、そうすればいつの日かきっと美しいチョウチョになれるはず、って。
今にして思えば、これってよくある「○○さえすれば……」的な思考のワナだ。
わたしたちはいつだって「理想の自分」を思い描く。
で、「しかるべく努力さえすれば、きっとそういう自分になれるはず」と思い込んじゃう。
ところが、現実はそう簡単じゃない。
なのに、世の中やファッション雑誌や人生アドバイザー連中は、こんなメッセージをひっきりなしに発信してくる。
「がんばって努力さえすれば、どんなことでも実現できますよ!」
いやでも、それって嘘ですよね。
だって周りを見回せば、みごとに「あおむし」だらけだもの。
万年「あおむし」なわたしたちは、いつも何かに後悔してる。
またネットのダラ見で午後が終わっちゃった、今日もタバコをやめられなかった、カロリー激高のケーキについ手がでちゃった、なのに腹筋はサボっちゃった……、ああもう、それにクリスマス用の松ぼっくりも案の定バタバタで用意できてないし!
しかたない、今年も一〇〇円ショップで間に合わそう。
年が明けたら新年会。
昨年のウサを晴らそうと、あおむしたちは飲むしかない。
あ、誰かタバコ持ってない――?
完全にドロ沼だ。
かといって、少しでも理想の自分に近づかなきゃと思い立って「自分磨き」してみたところで、基本ろくなオチにはならない。
可愛いかごバッグなんかひっかけて自転車で朝市に向かおうものなら、まあだいたい急に雨が降り出す。
で、犬の散歩ヒモが自転車の車輪に引っかかって、役立たずのかごバッグがひっくり返り、せっかく買った有機野菜の数々が近くに停まってたワゴン車の下にゴロゴロと……みたいな。
そこまでの災難はないにしても、実際にやってみると「なんか思ってたのと違う」ってなる場合が多い。
自分磨きをしてるはずが、全然「自分らしくない」ことをしてる自分に気づくからだ。
ダイエットや恋愛は中途半端、部屋もグチャグチャ。だけど、人生ってのはそれでいい
そして、それはもっと深いところでも同じ。
要は、「もっと仕事で成功したい」とか「もっとポジティブな自分になりたい」とか「社交的になりたい」とか……そういう何かしら「今の自分をガラッと変えたい」っていう野望は、だいたい叶いやしない。
なのに、人は自分を変えたいと願い続ける。
で、その需要をうまく利用したビジネスなんかが世にはびこって、ありとあらゆる欠点ごとに週末セミナーが開講されちゃう。
たとえば、人に好かれる魅力的なオーラを身につけたい?
だったら二万八五〇〇円払って週末コースを受講すればオッケー。
ちなみに「どんな講座か気になる」っていう人のために実際の講座紹介webページを覗いてみたところ、なんかよくわからないけど「効果の高い各種メソッド」を使ってるんだそうな。
ところで、みなさんはワークショップとか、セミナーとか、癒しツアーとか、週末コースとか、そういう自分磨きのための催しに参加したことがあるだろうか?
わたしは、ある。
それもかなりの数(そのほとんどはリサーチ目的だけど)。
でも、そのすべてが効果的だったかというと、正直微妙なところだ。
だってフツーにこれまでのセミナー参加歴を考えたら、わたしは今頃もっとポジティブ思考で、もっとお金持ちで、配偶者に暴力を振るうこともなく良好なコミュニケーションがとれてて、守護天使だか精霊だかともとっくに面識できてるはずだもの。
ちなみに、これまでの参加歴の中には、わたしの意志というより周囲にすすめられて受講したセミナーも結構ある。
たとえば守護天使のはスピリチュアル好きのアンネの紹介だし、配偶者に暴力うんぬんはLに受けさせられたやつ。
そのどれも、わたしは基本(必要に迫られてというよりは興味本位で)喜んで参加してきた。
ただし、もし今あなたが何か悩みを抱えていて、そういうセミナーを受講してみようかと考えているのなら、これだけは言っとく。絶対やめとけ。
この手のセミナーにいる人たちは、とにかくひたすらに暗い。
なのでセミナー自体も涙、涙のどんよりした展開になりがちだ。
参加者のほとんどは似たようなセミナーに通いまくってる常連さんで、その分野のエキスパートですかってくらい自分の悩みに精通してる。
もちろん、これは偏見かもしれないけど……こういうセミナーやワークショップが本当に心のリフレッシュに効果的なら、常連さんがどんより暗いままなのはおかしくない?
もっと明るく前向きになっててしかるべき。
なのに、内気でコミュ障な女子はワークショップ受講後もズケズケものを言える女芸人にはなれないし、太っちょのPCオタクが「プロのナンパ師が教えるモテ講座」なんて受けたって、いきなりモテ男にはなれっこない。
いつだったか、「あなたの内なるパワーアニマル」っていうセミナーを受けたことがあるのだけど(あ、ちなみにわたしのパワーアニマルはオウムでした)、すごく人の好さそうな講師の女性がこんなことを言っていた。
「みなさん、自分の価値をもっと認めてあげてください。みなさんの抱えるお悩みのほとんどは、自尊心の低さからくるものなんです」。
いや、でも人って多かれ少なかれ自分を認められないものじゃない?
そうじゃない人を、わたしは知らない。
――あ、ドナルド・トランプと友達のマックスは別だけど。
どんな欠点だって、それはたぶん生涯その人と共にある。
わたしたち「あおむし」は、いつまでたっても美しい蝶にはなれない。
「いつかきっと」って思いつつ毎日をダラダラ生きる、それが現実の人生ってやつ。
このカンペキなまでに不完全で、不安だらけで、片付かない本棚やたっぷりな体脂肪やマンネリな恋愛に満ちた人生を、わたしたちは今も、これまでも、そしてこれから先も送り続ける。
「Es lo que hay(そういうものさ)」ってスペイン人は言う。
まるで、人生はテーブルに出されたスープみたいなもので、出された後で味にあれこれ文句をつけたって何も変わらないって言うように。
だからこそ、不幸に見舞われてもけっしてくじけず自分の人生の舵をとり、大逆転をおさめた人たちのストーリーが、ものすごく魅力的に映るんだと思う。
「やっぱり努力さえすれば何でもできるんだ」って、少しだけ希望を抱かせてくれるから。
この手のストーリーに「勇気をもらえました!」って感想が多いのは、たぶんそういうこと。
とはいえ、どれだけ大きな運命の転機に見舞われたって、人間しばらくすれば慣れちゃうものだ。良くも悪くも。
だから交通事故に遭ったって、逆に超ラッキーにも宝くじに当たったって、人生の満足度はいつのまにか「普通」レベルに落ち着いてる。
何かを達成したって、それで「人生いつまでもハッピー」ってわけにはいかない。人間っていうのは、そういうものだ。
だから、いいかげん気づくべき。
どんなに努力したって、叶わないことはある。
ただし、それはあなたがダメなんじゃない、誰だってムリなんだ。
休みの日について聞かれたら、こう答えよう。「ジャージ着て家に引きこもってますが、何か?」
この世の中には、自分じゃどうにもできないことが山ほどある。
何かや誰かを失えば心はどうしたって傷つくし、うつ病の人がどれだけがんばっても病はそう簡単には治らない。
刺激的だけど害でしかないドラッグや恋人から、どうしても離れられない人だって大勢いる。
家族や恋人のムカつくところは他人の自分には直せないし、会社の上司や同僚なんてなおのこと。
そもそも人生ってのはときに不公平でクソみたいなもので、それだって人の力じゃどうにもならない。
要するに、「うちの母親が/会社の上司が/ぼくが/わたしが、もっと○○だったらなあ」ってどれだけ心から願っても、それはほぼほぼ現実にはならないわけ。
なのに、わたしたちはそんな叶わぬ願いを「やりたいことリスト」のかなり上位に書き連ねる。
よし、今度こそ。
もっとしっかり努力して、過去の自分と向き合って、原因をきちんと分析できたら、そうしたらきっと――。でも、それって間違いなわけ。
どうか気づいてほしい。
わたしも、かつて気づかされた。
Lに変わってもらうには(ちなみに、Lは脱いだ靴下を洗濯カゴに入れずに、魔法陣さながらにベッドの周囲に脱ぎ散らかすクセがあるんだけど)、彼の前頭葉を改造する以外に方法はないって。
それはさすがに、ビビッてやめた。
いやでもマジな話、ホントにどうしようもないわけで。
今の自分を受け入れて、自分の可能性にも限界があるんだって認めるしかない。
つまり、わたしはこれから先も、松ぼっくりを添えた可愛らしいクリスマス・プレゼントとは無縁ってこと。
それだけじゃない。
こっちのほうが認めたくない事実だけど……わたしは自分が「こうだったらいいな」って思うような、オープンで、好奇心いっぱいで、明るくて社交的で感じの良い人には、どうしたってなれない。
さらにしんどいのは、たとえば誰かに「休みの日に何されてるんですか?」って訊かれたとき、
「そうねえ、テニスとか。あと最近、仲間とヨットに乗ったりしてます。それと、動物保護施設のボランティアとか、市民大学でイタリア語IIIのコースに通ったりとか……ああ、でも自室のロフトで一人静かに世界の文学を読むのも好きかな。夜には友人と集まってヴィーガン料理を楽しんでます」って答えたら大ウソになるから、正直にこう答えなきゃいけないってこと。
「休みの日? ジャージ着て家に引きこもってますね」
いろんな人と出会って人脈を広げて……とか、わたしはあまり興味がない。
なにせ今ある人脈で手一杯なもんで。
それに旅行も別に好きじゃないし。
さっきも言ったように、ジャージでも着て家にいるのが一番。
これがわたしだし、自分のそういう性格はどうしたって変えられない。
てことは当然、他人の性格なんてもっと変えられないわけで。
それでも、自分を責めるのをやめることはできる。理想の自分になれないからって「なんでいつもこうなんだろう……」って落ち込むのを、まずやめてみる。
で、「自分にはどうにもできないこと」はサクッとスルーして、どうにかできる部分に集中すればいい。
たとえば毒親との関係がぎくしゃくしてるなら、親本人に変わってほしいと願うより、ダメな親ともどうにか平和にやっていく方法を考える。
愛にも幸せにも恵まれない人生を嘆くより、「こんな人生でも、自分はたくましく生きてるんだ」って誇りに思うことを現実的な目標にしてがんばってみる。
だからわたしも、酒とタバコにまみれた飲み会の翌朝、自分を責めるのはもうやめた。
「ああもう、また吸っちゃった! なんで我慢できないかな……」って吸ったそばから後悔するのもやめた。
その夜は思いっきり楽しむことにして、そのかわり「あんまりハメはずさないように気をつけます」って自分と約束することにした。
それに「もっと自分をいたわらなきゃ」っていうありがちな反省のかわりに、
「わたし、なかなか健康に気をつかってない? やるじゃん!」って斜め上の方向に開き直ってみた。
こんなふうに、自分磨きにも限界があるって気づくことができれば、その限界とうまく付き合っていく方法も見えてくる。
そのほうが、「どうしても〇〇できない……」ってグチグチ嘆き続けるよりもずっと効率的なはず。
〇〇なんて、スルーでいい。
ここで、なにかと思いどおりにいかない「よくある悩み」をいくつか下の表にまとめてみた。
どれも、思ってる以上に「自分じゃどうにもならないこと」なのに、「どうにかしなきゃ/できるはず」って思い込んでしまいがちだ。
当てはまるものに丸をつけて、空欄にはあなた自身の悩みを書き込んでみて。
そしたら、わたしと一緒に他人事みたいにふんぞり返って、「がんばればできるはず」のアレコレをばっさりスルーしちゃおう。
ほら、すごい気分爽快じゃない?
「自分磨きなんてしなくていっか」って思えるの、最高じゃない?
がんばって何かを克服する必要も、自分のケツを叩く必要も、期待も、「もっと〇〇な自分にならなきゃ」って焦りも、「変わらなきゃ」っていう思い込みも、ぜーんぶポイで。
だって、そんな必要ないんだから。今のままで全然大丈夫。
それに第一、あおむしの何が悪いわけ?
あおむしだって立派な生き物ですから。
■捨てられない物を、スルーしてみた
思わず笑顔になる持ち物だけ残せば
片付けはほぼOK!
「こうならなきゃ」ってイメージを捨て去ると、すごい解放感がある。
理想の自分のイメージや、世間が「こうあるべき」って押しつけてくる理想に影響された「なりたい自分」のイメージ。
そういう理想を追いかけていると、「なんでできないんだろう」っていう罪悪感や、後ろめたさ、コンプレックス、自己卑下などなど、とにかくネガティブな感情しか生まれない。
だからポジティブに生きたいなら、「理想」なんてスルーが一番だ。
でも、なかには「いきなり全部をスルーなんてできません」っていう人もいると思う。
そんな人は、まず「物」から始めてみるといい。
「物」はスルーの練習にうってつけだ。
なんたって、物相手ならスルーしても傷つけずに済むし。
それに、だいたいの人は山ほど物を持っている。
今は亡きイーダ伯母さんの形見にもらったキツネ毛皮のマフラー。
大枚をはたいて買ったスワロフスキーの派手なシャンデリア。
オーダーメイドしちゃったものの今は物置に眠ってる、クルクル回るブロンズ製の仏像――。
うん、いいと思う。
物を持ってるって、すばらしいことだ。
ただし、それは実際に使ってる物か、または持ち主を幸せな気持ちにさせてくれる物に限っての話。
たとえば、どんなに亡きイーダ伯母さんを愛してても、イーダ伯母さんの毛皮のマフラーはぶっちゃけちょっと……ってこともある。
毛皮のマフラーにありがちなキツネの顔部分、あれがめちゃ不気味で無理、とか。
この章でわたしたちがスルーすべきは、イーダ伯母さんや、毛皮のマフラーや、仏像(なんてバチ当たりな)そのものじゃない。
そういう物を「捨てられない心理」のほうを、まずスルーしていこう。
毛皮のマフラーとか仏像うんぬんは、その後の話。
さて、何かを捨てずに取っておくべき理由は、二つある。
・それを目にすると、つい笑顔になっちゃう
・実際に使っている
以上。たったこれだけ。
この二つを頭に入れたうえで、家の中をぐるっと見回してみよう。
――あ、今、夫や彼氏に「こいつは……」って疑いの目を向けた人、ソレは今はほっといてよろしい。
パートナーは「物」じゃないので。それについては後々「恋愛」の章で詳しく説明するので、そのときにあらためて連れてきて。
さて、捨てるべきか迷う物に目がとまったら、さらに別の基準からもチェックしてみよう。
もし「取っておきたい理由」の中に、次にあげる理由が一つでも入ってたら――そいつは迷わず捨ててオッケー。
・まだ新しい/まだ使えるから
・人から貰ったプレゼントだから
・形見なので捨てられないから
・また必要になるかもしれないから
・いつか気に入るかもしれないから
・高かったから
・いつかまた流行るかもしれないから
・今、流行ってるから
・捨てるのが心苦しいから
・昔からずっと家にあるから
・仏像を捨てると七年くらい祟られるっていうから
洋服ダンスやシューズラックの中身も同じ。
手持ちの服や靴のだいたい四十パーセントは、次の二つのカテゴリーのどちらかに当てはまるはず。
a きつくなって着られない/履けない物
b いつかダイエットに成功したら、また着られる/履けるようになるはずの物
そういうのも、バンバン捨てるべし。
ちなみに、このルールに従うと、高級ブランドの仕立てのいいジャケットなんかがお払い箱になる一方で、セクシーな黒レザーのコルセットや、昔おばあちゃんが結婚式に着た古めかしいウェディングドレスは生き残ることもある。
なぜって、どちらも見るだけで楽しい楽しい夜の思い出が甦ってくるから。
――あ、早とちりしないように。
ウェディングドレスを着たLが超ツボだったってオチだから。
ところで、この章でいう「物」のカテゴリーには、実際の物品だけじゃなく、もっと抽象的な「もの」も含まれる。
たとえば、「てにをはの正しい使い方」。
これなんか、わたしは個人的に日々スルーしまくってる。
あと「肉料理には赤ワイン、魚料理には白ワイン」っていうルールとか。
美味しけりゃ何でもいいじゃん、っていうのがわたしの基本スタンスだ。
だいたい魚本人も、自分が泳いでる液体が赤ワインか白ワインかなんて、もはや知りようがないわけで。
さらに、わたし的にはアメリカ大統領候補も「物」のカテゴリーに入る。
もちろん、彼らは(たぶん)実在の生きた人間なわけだけど……わたしにとっては、あくまで自分とは絶対関わりのない「何か」なので。
さて、ここからは、わたしが日々微妙にイラッときている「要スルー物件」をいくつか紹介しよう。
最後に一ページ分のスペースも用意したので、あなた自身の「スルーしたいもの」も書き込んでみて。
アメリカ大統領選挙をめぐるメディアの大騒ぎ
これ、ホントに茶番かって思う。
よその国の大統領候補に関するムダ知識を、しかも選挙のたっぷり二年くらい前から、問答無用で頭に叩き込まれなきゃいけないなんて。
しかもわたしなんて、そのムダ知識を今でもまだ覚えてるんだから。
なんでそんなことに自分の脳みその一部を割かなきゃならないのか、マジで意味がわからない。
おまけに、それで知り得たことはといえば「誰が新しいアメリカ大統領になるのか」でもなければ、「誰がアメリカ大統領になるために立候補したのか」ですらない。
「今度はどんなトンデモ候補が、大統領候補になるための候補に選ばれたのか」だ。……いやほんと、何なの?
ドナルド・トランプみたいな連中のおかげで、わたしの頭の記憶容量がどれだけムダ使いされたことか!
それさえなきゃ、わたしだって今頃もっと役に立つ知識を蓄えられてたはずなのに。
たとえば、ほら……両生類と爬虫類の違いとか。
それに、息子の保育園の先生の名前をド忘れして恥をかくこともなかったのに!
「スポーツすべき」っていう風潮
これについては、わたしだって努力はしてきた。
そこは誰も否定しようがないと思う。
バレーボールに、ジョギング。
ジムにも通ったし、個人トレーナーについてみたこともある。格闘技のクラスで若くてたくましい現役の警官男子にヘッドロックをかけられた経験も――あれは、なかなか悪くなかった。
まあとにかく、そんな数々の努力のすえに行き着いたのは、「自分はスポーツに向いてない」っていう事実だった。
そこに気づくまで、ずいぶん長いこともがき苦しんできた。
この地球上で、わたし以外の誰もが健康的なスポーツライフを送ってる気がして凹んだりして。
わたしだっていつか、健康食品のCMみたいに公園を楽しげにジョギングする充実ライフを送るんだから――。
それが、かつてのわたしの目標だった。
今ではそんな目標も、街角ですれ違う汗だくのランナーもろとも、どっかに走り去っていったけど。
で、わたしはそれを余裕でスルーしつつ、大きなチョコをにんまり顔で味わうのだ。
「おしゃれヒゲ」ブーム
最近サブカル系男子の間で流行ってる顔じゅうヒゲもじゃなスタイル、あれ、マジで何なのか。
たしかに、初対面のときは「わ、イケメン」て思うかもしれない。
でも、なにしろ顔の大半がヒゲで隠れてるから、本当にイケメンかどうかは誰にもわからないわけで。
もじゃヒゲの男性とお付き合いするって、要は中身のわからない福袋(しかも、すごいもじゃもじゃで分厚い袋入り)にダメ元で手を出すようなもの。
とんでもないハズレを引く可能性だって覚悟しといたほうがいい。
おしゃれ飲食店のタパス(小皿料理)
このタパスってやつ、わたしにはホントに意味がわからない。
もちろん、一杯やるときに何か軽めのおつまみを、っていう話ならまあわかる。そういうのはわたしも大好きだ。
意味不明なのは、よく友達や同僚どうしで交わされる、「ねえ、タパスの美味しいおしゃれなバルを見つけたんだけど、どう?」みたいなやつ。
そういうお店のタパスって、ちっぽけなお皿にこれまたちっぽけな料理がちょこんと載ってるような代物で、しかもそれを「これ美味しいよ~、食べてみて」とか言って、その場にいる人全員がちょこっとずつ回し食いするのだ。
――で、結局、高級ステーキなみの代金を払わされたうえ、空腹を抱えたまま店を出るはめになる。
知る人ぞ知る「穴場スポット」
ホントに理解不能なのだけど、世の中にはいわゆる観光地を嫌って、観光客のいないマイナーなスポットを好んで訪れる層がいる。
でもわたしの経験から言わせてもらうと、観光客が多い場所には、それなりの理由があるわけで。
きれいな海辺や、ここでしか見られない珍しい建築物、美しい風景――。
そりゃもちろん、そういういかにもな観光地には目もくれず、ゴキブリ一匹訪れたことのない真の穴場を目指したいっていうなら、それもいい。
工業地帯とか、さびれた街角の薄暗い路地とか、海に下水が流れ込む場所とか。
そういう場所って、たしかにちょっぴり冒険のニオイがするものだ。
――でも、それって必ずしも良いニオイじゃなくない?
わたしはそう思っちゃうタイプ。
まあ、我ながらイケてない考え方だとは思うけど……別にいいでしょ、そんなのスルーで。
どうせわたしは、みんなの後ろについていくヒツジですよ。
最近若者の間で流行ってるサブカル系バンドの違い
正直わたしにはさっぱり区別がつかない。誰か、見分けかたを教えてください。
■スレンダーボディを、スルーしてみた
夏は、お腹の肉を凹ませっぱなしで、
息が苦しくなっちゃうシーズン
わたしが世間一般に言ういわゆる「スレンダーボディ」をキープできていたのは、一二歳の頃が最後だった。
それ以来、わたしの中で「スレンダー」と「ボディ」は二度と交わることない別々の世界と化している。
外交関係のひとつもない、完全なる国交断裂状態。
なので一三歳のいたいけな少女時代からこっち(ちなみに一三歳といったら、正直まあまあ昔の話だけど)、毎年夏が来るたびに、水着を着るときはお腹を引っ込めて生きてきた。
海辺で、湖畔で、プールサイドで、六月から八月までずっと、大きく息を吸ってお腹をへこませる。特に一九八〇年代はヘソ出しルックが大流行とあって、わたしは休む間もなく息を止めっぱなしだった。
今にして思えば、その後の発育に影響が出なかったのが奇跡なくらい。
当時人気だった女性誌のおかげで、お腹の目立たない寝そべり方も心得ていた。
ビーチにタオルを敷いて水着で寝そべるときは、仰向けに寝ころんで膝を軽く立てる、これ一択。
この姿勢が一番スタイル良くみえる。
一方、のっぽでやせっぽちの女の子たちは思い思いの座り方ですらりとした脚を強調しつつ、たいていは水着の上にTシャツを着て、ない胸をごまかしていた。
人の悩みって、ホントに人それぞれだ。
そんな自意識過剰なわたしの行動パターンも、歳を重ねるうちに少しはマシになったと思う。
それでも、根本的なところは結局昔のまま。
だから今でも時々、椅子の端に浅くちょこんと腰かけている自分に気づく。
なぜかというと、そのほうが脚がすらっとして見えるから。
それはいつからか身についていた癖だった。
歯並びの悪い人が口を開けて笑わなくなるように、ごく自然にそれが習慣になっていた。
ビキニの似合う「スレンダーボディ」なんて、もうこの歳になったら何の役にも立たないことは、わたしだってよくわかってる。
それでも、「スレンダーにならなきゃ」っていう思いはどうしても消えない。
わたしの部屋のクローゼットには、まるでいましめるように、きっかりワンサイズ小さいジーンズがぶらさがっている。
ムカつくそいつはわたしが下着姿でクローゼットの前に立つたびに、お説教がましく眉をひそめてみせるのだ。
でも――これが不思議なことに、実際にわたしが「この人すごくきれいだなあ」と感じる女性は、別にスレンダーな美女ばかりじゃない。
堂々と自身に満ちた人は、鼻が大きかったり、髪がボサボサだったり、お尻やお腹が大きめだったり、そういうのをひっくるめて美しいって思う。
もしかしたら(あくまでも、ひょっとしたらだけれど)、スレンダーボディをあきらめきれない心理の裏側には、「女性らしさ」とかいう意味不明な価値観や、メディアがさかんにまき散らす女性像に日々さらされて育ったことも影響しているのだろうか。
いつだったか、まだ三歳そこそこの息子がテレビCMを見ていて無邪気にこう言った。「女の人はいっつも裸で、男の人はいっつもしゃべってるね」。
……うん、なかなか核心を突いたコメントじゃないか。
そう、だから女の子は自分の外見に度が過ぎるほど気を使うようになる。
そして一部の人は、一生そこから抜け出せなくなる。この「女性=裸/男性=しゃべってる」っていう、子供の目にも明らかな価値観が、心理の裏側に潜んでるのかもしれない。
いずれにしても、ここらで一度自分の胸に手をあてて考えみたほうがいい。あなたは本当に心の底から、スレンダーなボディになりたいと思ってる?
次の質問に「はい」か「いいえ」で答えてみよう。
楽しいことに夢中になると、
お腹のぷるぷるなんてどうでもよくなる
「ビキニの似合うスレンダーボディとか言うけど、結局どんなボディだって水辺でビキニ着てりゃサマになるのよ」湖に向かう車中、わたしは運転席に座るアンネに向かってそう力説していた。
スレンダーボディなんてスルーすべし。
この新たな決意をさっそく実行に移すべく、わたしはリサーチのため一日休暇をとって、アンネと二人で湖畔に向かっていた。
ちらりとジト目でわたしのお尻を見やるアンネに、「ちょっと!」とツッコミを入れる。
湖に着いたわたしたち二人は、草地の上にバスタオルを敷いた。
アンネが薄手のワンピースを脱いでいるのを眺めつつ、いつもながら猛烈にうらやましくなる。
すらりと長い美脚に、ぺたんこのお腹、それにドーナツ一つ分のたるみすら許さないスリムなヒップライン。
それもそのはず、アンネはヴィーガンで、環境に優しい食品しか食べないうえ、白砂糖も小麦も乳糖も冷凍食品もとらない主義なのだ。
一時期なんて完全に断食して、日光浴だけで栄養をとろうとしてた。
今では仲間内で定番のからかいネタだけど。
ああ、わたしも来世ではあんな美脚に生まれたい。そしたら毎日ミニスカートやピタピタのスキニーやホットパンツを履きまくって過ごすのに。
「じゃあわたしは、来世ではもっと胸が欲しいわ」アンネはそう言ってため息をついた。
今回、わたしたちは二人ともビキニ持参だった。
そそくさと自分のビキニに着替え、堂々たる我が身を露わにしたその瞬間、わたしは自分でも気づかないうちに息を吸い込んでお腹を引っ込めていた。
さらにお尻と太ももにきゅっと力を入れ――かけたところで、あやうく思いとどまる。
わたしは意識してふーっと息を吐いた。
体から力が抜けて、お腹の肉があるべき場所にぷるんと戻る。
「夜寝るときと同じ姿勢で寝そべってみれば?たぶんそれが自分にとって一番リラックスできる姿勢だと思うのよね」アンネが助言してくれた。
なるほど、一理ある。
「どう? どんな感じ?」しばらくして、ぎこちなく横向きに寝転がったままのわたしにアンネが声をかけた。
「……海辺に打ち上げられたクジラって感じ」
とわたし。
実際、気分はまさにそんな感じだった。
とにかく居心地が悪い。
横向き寝でも、座っていても、あぐらをかいてみても。
そうするうちに、脳内の自分と現実の体型との間に横たわる贅肉やお腹のたるみが、ひしひしと胸に迫ってきた。
わたしはなんだかちょっぴりヤサグレた気分になった。
「あーあ、なんでわたし、ヴィーガンになって冷凍品や砂糖をきっぱりやめられないんだろう?
デザートもおかわりしちゃうし、個人トレーナーと集中エクササイズもできないし。だいたい、なんでいっつもチョコに手が出ちゃうわけ?
しかも、すでに一箱たいらげた後によ?」
「そりゃ、君がチョコ好きだからさ」背後から声がした。
振り向くと、そこにはパートナーのLが立っていた。
タオルを手にして、息子と犬を引き連れている。
わたしたちの計画を知ったLは自分も手早く仕事を切り上げて、息子を保育園に迎えにいき、おまけにスイカまで用意して駆けつけてくれたのだ。
目の前でニコニコ笑う彼らを見ていたら、ヤサグレた気持ちが急にどこかに消えてしまった。
わたしはサメ柄の海パンを履いた息子を抱っこして湖に入った。
そんなわたしたちを我が家の犬がしっぽを振って眺め、傍らではLがスイカを一口サイズに切りながら見守っている。
息子と一緒に海の怪物ごっこをしながら、「あれ、わたしもしかして今、だいぶヤバくない……?」ってふと我に返ったりもしたけど、息子が楽しげにキャッキャと笑うものだから、結局すぐに忘れてしまった。
バスタオルに向かってダッシュ競争をしてる間もそう。
笑うのに大忙しで、自分がチーターみたいにしなやかな肢体じゃないことなんて、きれいさっぱり頭から消え去っていた。
スイカを食べるために座ってあぐらをかいたときは、さすがに一瞬ひるんだけれど――それでも愛すべき人たちに目をやれば、すぐに心が穏やかになった。不思議なものだ。
楽しい、大好き、愛しい、優しくしたい、笑える――そういう気持ちに意識が向いている間は、ネガティブな感情なんてどこかに消えてしまう。
それに大きな声じゃ言えないけど……ちょっと周囲を見回してみれば、自分の周りにいるのがけっしてジェニファー・ロペスやベン・アフレックみたいな美形ばかりじゃないことに気づくはずだ。
田舎系ドキュメンタリーに出てきそうな素朴なオジさん、オバさん方の中では、わたしだってまあまあイケてる部類じゃないかって思えてくる。
わたしはもう自分の体をうじうじ見下ろすのはやめて、息子の顔じゅうに飛び散ったスイカの汁や、Lのきらきら輝く瞳に目を向けることにした。
そうして、アンネがこの前のスピリチュアル旅行で体験したという笑い話に耳を傾けた。
やがて赤みを帯びた金色の夕日が沈みゆく頃、わたしはLに寄り添いながら、湖面に小石を投げて遊んでいるアンネと息子の姿を眺めていた。
「ねえ、自分がもっとスマートだったらとか、背が高かったらとか、マッチョ体型だったらとか、そういうふうに思ったことある?」Lにそう尋ねてみる。
Lは横目でちらりとこちらを見やった。
「君はさ、ぼくがもっとスマートで、背か高くて、マッチョ体型だったらいいなって思うわけ?」
わたしはLをしげしげと眺めて考えるふりをしたけれど、それはただのおふざけだった。
だって、答えはノーだから。
Lはこの姿だからいいんだ。
今のままのLがいい。
「それじゃ、ぼくも今のままがいいな」Lは言った。
その夜、はしゃぎ疲れた息子をベッドに寝かしつけた後、わたしは今宵二つ目のデザート(パンナコッタ、しかも黒サクランボのソース添え!)をスプーンで口に運びながら、幸せをかみしめていた。
今日というすてきな一日への満足感だけじゃない。
今までにない満ち足りた感覚が、(お腹だけじゃなく)全身を満たしていた。
こうして、クローゼットにかかっていた例の口うるさいジーンズは、高らかな「せーの!」のかけ声とともに、どこか遠くに放り捨てられたのだった。
もしかしたら今頃、あっちでカトリンや何冊かの女性雑誌と出会って、お互いを責め合ってケンカしてるかもしれない。
【著者略歴】
アレクサンドラ・ラインヴァルト
1973年、ドイツ・ニュルンベルクに生まれ、レーゲンスブルクで育つ。両親は早いうちに離婚。
子供時代の彼女は父と母の間を電車で行き来しつつ、乗り合わせた人々に架空の物語を語っていた。
18歳の時にミュンヘンの大学へ進学し、社会教育学を専攻するがわずか2週間で中退。
2000年、スペイン旅行の際に立ち寄ったバルセロナ近郊の村に魅せられ移住を決意。
広告代理店で広告撮影のコーディネーターとして、またコピーライターとして働き、その傍ら執筆活動を開始。
自身の経験を元に誰もが日常生活で直面する問題を掘り下げ、解決策を探るプロセスを軽妙に描くスタイルが受け、これまでに『Was ich an dir liebe(あなたの好きなとこ)』、『Das Leben ist zu kurz für später』、『Das Glücksprojekt』など複数の作品がベストセラーとなっている(いずれも未邦訳)。
本書『Am Arsch vorbei geht auch ein Weg』は、独シュピーゲル誌のベストセラーランキング、ソフトカバー/ノンフィクション部門で2017年前半に第2位にランクイン、その前後2年以上にわたり10位以内にとどまり続けたベストセラー作品。
2016年の刊行以来、売り上げ数は70万部に上る。なお、翻訳出版ライセンス契約は9つの国(英国、米国、ブラジル、フランス、イタリア、チェコ共和国、スロベニア、韓国、ポーランド)の出版社と結ばれている。
スペイン・バレンシア在住。プロデューサーおよび作家として活動
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