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カナヅチの水泳教室  叶

わたしは泳げない。
多くのカナヅチたちと同様、わたしもプールの授業に苦戦した。


小学生の頃は多少の努力もした。
体育教師を目指しているであろう大学生が講師をしている夏休み限定の水泳教室に通ったりもしていた。
1年生のときから毎年初級のクラス、
つまり水に顔をつけることはギリギリできる、に振り分けられて、毎年クロールを習った。
しかしわたしの運動能力を甘く見てはいけない。
行進の練習をしているといつの間にか右手と右足が一緒に出るタイプだ。
自分の身体を適切に動かすことにおいて絶望的にセンスがない。
陸上ですらこうなのだから、水中なんてなおさらだ。
そしてそんな人間が夏休みに習う程度で泳げるようになるわけがない。
間違いないはずなのに小学4年生の夏休みのある日、
わたしの人生に転機が訪れる。


水泳教室で最後の記録をとる日だった。
わたしは『クロールで50m達成』の記録を得た。
自らの名誉のためにいうがビート板やその他の補助器具は使用していないし、人の手も借りてない。
辛うじてあったのは大学生講師の先導くらいだ。
もう一度繰り返すが、わたしは泳げない。
泳げない人間がクロールで50mどうやって泳いだのか。
一見難解に思えるが、答えは実に単純だ。
根性。これだけである。


表現にいささか不親切な点があるので訂正していく。
まずは『クロール』で泳いだという点。
わたしがやっていた動きは厳密に言わずともクロールではない。
両腕バカ回転&バカバタ足だ。
しかし、両腕バカ回転&バカバタ足でも水中では多少進む。
そして敢えてそれを泳ぎ方で例えるなら『クロール』になる。

次に『泳いだ』という点。
こちらも厳密に言わずとも泳いではいない。
わたしは死なない程度に溺れていた。
息継ぎの度に空気の代わりに水を吸い込み、鼻の奥にツンとした痛みが走って意識朦朧としている状態は溺れていると表現するのが妥当だろう。
小学生のわたしでも、いざ死んでしまうレベルで溺れてしまったときには目の前の大学生講師が助けてくれることくらいはわかっていた。
奇妙な言い方だが、記録をとる間わたしは安心して進みながら溺れることができた。
そしてその様子を敢えて例えるなら『泳いだ』になる。


水中で動力を得て安心して溺れられる環境が整うと、
あとは根性の範疇だ。溺れながらもひた進み、そしてゴールする。
わたしの動きは決してクロールと呼べる代物ではなかったし、完全に溺れていたが、
『クロールで泳ぐ』を課題とした場合、
クロール風の動きで50m進みきっただけで『クロールで50m達成』という評価になる。
あとはわたしはその便宜上の評価をどう受け止めるかである。
「50mなら泳げるんだよね」と言うもよし、
「泳げないんだよね」と言うもまたわたしの自由なはずだ。



しかし謙遜以前に自己評価と事実に於いてはやはり泳げない。
自慢ではないがわたしは平泳ぎもバタフライもやろうとしたことがない。
背泳ぎなんてもっての外だ。動きを知らない。
下手に「クロールでならできます」なんて言って勝手にステップアップさせようとされても困る。
そもそもクロールもできていない。
したがって次のプールの授業や翌年の水泳教室でもわたしは泳げないと表明し、
同じように初級のクラスで水に顔をつける練習からはじめ、
律儀に毎回そこそこ躓いた。


大人になってからプールに行く機会があった。
目的は泳ぐことではなく、水遊びをすること。
わたしは浮き輪を相棒に、
流れるプールに流されるまま機嫌よく浮かんでいた。
昔はわたしが根性を出したが、
今では浮き輪が頑張ってくれている。
極楽、極楽、としばしキヅチ気分を噛み締めたのもまた夏の日だったことを覚えている。


それではまた。




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