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【短編小説】習作・SWEET MEMORIES  叶

日曜日になると彼は車で迎えに来てくれる。どちらが言い始めたわけでもないけれどもカレンダーの赤い印が週に一度のデートのサインであることは、
三年間、二人の暗黙の了解であった。
彼は今日もマンションの車寄せにぴたりと車をつける。
「昨日、洗車しておいたから」
言われてみればたしかに青い車体はいつもよりもピカピカと光を反射している気がする。
「いつも車出してくれてありがとう」
と両手の指の腹部分だけを合わせてわたしは彼に微笑む。
満足そうに頷く彼は車が好きらしく、このピカピカの愛車もトヨタだか日産だかの人気車種らしい。

「早く乗っちゃって」
急かす彼にごめんと目配せしつつ、
わたしは広い助手席に乗り込む。
助手席のシートはいつもどおり、ちょうどわたしが快適に座れる角度を維持したままになっている。
彼はハンドルを握り、前だけを見ていた。
わたしはダッシュボードから地図を取り出し、いつでもナビゲーションするポーズをとる。地図なんて読めないけれどそんなことは些細な問題だ。
 
移動中、わたしは運転している彼の横顔をぼんやりと見ていた。
光にあたった髪は表面だけが稲穂のように明るく見える。昨日もドライヤーをサボって寝たのであろう、後ろ側に直し損ねた寝癖が残っている。
ペットボトルの紅茶を飲みながら午前中に頂いて良かったかしらと思いつき思いついたまま心の中にしまう。

目的地に着いたのは十二時を少し回った頃だった。
車のドアを開ける前にわたしはポーチから口紅を取り出し今朝と同じように色を足す。
「少し口紅濃いんじゃない」
「わたしは顔が地味だから控えめな色だと映えないの」
「ふぅん。僕にはよくわからないけど」
そんな雑談をしながらレストランのドアの前まで歩く。ランチタイムだけあり店内はなかなか混んでいる。
彼が入り口にいた若いウエイトレスに軽く手を挙げ合図し、席に案内してもらう。
水と一緒に運ばれて来たメニュー表を開こうとしたそのとき。
「すみません、コーヒー二つお願いします」
わたしと丁度背中合わせになった席から懐かしい声が聞こえた。
途端心臓が跳ねる。人は人を声から忘れるというが、そんなのきっと出鱈目だ。わたしはあの人の声を忘れたことがない。声だけではない、あの人の全てを忘れたことがない。
わたしは水を一口含みお手洗いに行くからと席を立ち、あの人とその連れをちらりと見た。

あの人の連れは色が白く、とても美しい女性だった。
無性に、憎らしかった。
終わったこと、過去のこと、今さら言っても仕方のないこと。今日ここで起きたことも事故だ。十分すぎるほど、理解している。
手洗いの蛇口から流しっぱなしにしている水を見ながら心を落ち着ける。手で水を掬い何かを吐き出すように何度も口をゆすぐ。排水口に呑まれていく水は時々コポッと音を立て、わたしの胸の奥に鈍く居座る感情も一緒に流していくようだ。
鏡を見ながら少し崩れたファンデーションを直し、もう一度口紅を塗る。大丈夫、わたしだって悪くはない。

彼の待つ席へ戻る途中、あの人の視線が一瞬わたしへ向いた気がしたが勘違いだと言い聞かせる。化粧の濃い女をあの人は嫌う。


スカートの後ろをおさえながら元いた場所に腰掛ける。彼はわたしの注文も済ませてくれていたようで、コースターの上にはグラスに入ったアイスティーにガムシロップが三つ添えられていた。
「わたし、しあわせ」
わたしにとって嘘ではない言葉は高い天井に届くわけもなく二人の距離だけで消える。
「どうしたの、急に。何かあったの」
一瞬キョトンとした後に彼は八重歯を見せて笑うが目の奥の心配の色は隠せていない。
わたしは薬指の指輪を撫でながら、
「ううん、全然。なんでもない」
今度は正真正銘嘘をついた。



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