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【リアルレビュー】映画『オッペンハイマー』を観た、二児母ライターの感想

今日の午後、久しぶりに1人時間をもらい、夫に子ども2人を託してお一人様映画鑑賞をしてきた。チョイスした映画は、以前から観たかった『オッペンハイマー』

正直、事前知識もあまりなく挑んだ映画だったので、今回のレビューは見る人が見たら非常に拙く幼稚な内容に映ってしまうかもしれない。
でも、見た直後だからこそ書ける生の感想を書きたい。自分の想いを言葉として残しておきたい。無性にそう思ったので、とにかく書いてみる。

▼映画『オッペンハイマー』概要
世界初の原子爆弾を開発した、「原爆の父」として知られる理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた伝記映画。

https://moviewalker.jp/mv84909/

この映画を観た直後、もう何十年も思い出したことのない記憶がふっと蘇った。中学3年生の頃の国語の時間。「原爆は正か悪か」というテーマで、班ごとにディベートを行う、という授業があった。

もちろん、当時はクラス中の誰しもが

「原爆は悪だ」

と思っていたはずだ。

しかし、それでは授業が成り立たないため、正派と悪派をそれぞれくじ引きで公平に決めることになった。正派になった班は自身の気持ちがどうであれ、“原爆は正しい存在である”ということを、どうにか理論立てて説明する必要に駆られた。

そして私の班は、“正派”になってしまったのだ。

班での話し合いの時間を数十分間設けた後は、いよいよ正派と悪派で順番にディベートを行っていく。当時から割と文章を考えるのが好きだった私は、班の中で率先して思ってもいない“原爆正論説”をあれやこれやと論じた。

私が語った内容は、確かこんな感じだ。

「原爆の存在は、戦争の抑止力になる。原爆があることで犠牲者が出たことは確かだけれど、原爆がなければもっと甚大な被害が出ていたかもしれない。だから、原爆はこれ以上悲惨な戦争を起こさせないために、どうしても必要な存在なのだ」

今思っても、よくぞまあこんな心にもないことをペラペラと喋っていたなと思う。そして私の班は、クラスの多数決により、悪派に勝利したのだ。


「原爆は戦争の抑止力になる」

当時中学3年生だった、あまりにも幼すぎる私のこの原爆正論説は、映画『オッペンハイマー』の中でも言及されていた。

本当にそうなのだろうか?

原爆は、本当に正しい存在なのだろうか?

当然ながら、そんなわけがない。

何万人という罪のない民間人を死に追いやった原爆が、正しい存在であるわけがない。

しかし、原爆の存在を否定しながらも、原爆の存在を否定し切れない自分がいる。

原爆は、オッペンハイマーを含む当時のある一定の人たちにとって、その存在を追い求めることが自身の生に繋がるほど、必要不可欠な存在だったのだ。原爆を“正”としないと生きていけない人たちが、かつては間違いなく存在したのだ。


1945年7月16日、アメリカで行なわれた人類最初の核実験『トリニティ実験』。トリニティ実験の描写は、映画の中でも特に息を呑む緊迫のシーンとして描かれていた。

オッペンハイマーを含む当時の研究者や米軍関係者は、核実験の成功にひどく歓喜した。その様子は、さながらオリンピックで自国が優勝した時のような、それはそれはすごい喜びようだった。

だがどうだろう。あんなに実験の成功を喜んでいたはずなのに、オッペンハイマーは実験直後から原爆の倫理観に悩まされ始める。

「正」の存在であった原爆が、突如として彼の中で「悪」の一面を見せ始めたのだ。

“原爆の父”と謳われるオッペンハイマーでさえ、原爆は正であり悪である存在だった。それほどまでに、原爆は私たちの倫理観を振り回し凌駕する、恐ろしい力を持った強烈な存在なのだ。


中学3年生の頃の、国語のディベートの話に戻る。
“原爆正論説”を唱えた私に対して、当時の国語の先生はこう言った。

「とてもよくまとまっていた」

そして今日、映画『オッペンハイマー』を観た私はこう思う。

「原爆の話は、正か悪かをまとめるものではない。正でも悪でもどちらでもいいから、私たちの命がある限り、永遠に考え続けなければならないテーマなのだ

ずるい回答かもしれないが、これが私の本音だ。

そして私は、被爆国の人間であるにも関わらず、あまりにも原爆の歴史的背景を知らな過ぎることを痛感した。

自身が考え続けなければならないことはもちろん、自分の子ども達、さらにはその子ども達の代にもこのテーマを伝えていけるよう、もっともっとこの国の歴史を知る必要がある、そう強く思った。


映画『オッペンハイマー』を観た皆さんは、この映画……というよりも、“原爆”に対して何をどう感じただろうか?

クリストファー・ノーラン監督は、この映画を通して、私たちに“考えることの重要性”を伝えたかったのではないだろうか。

そんなことを悶々と考えながら、映画館を後にした今日という日なのであった。


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