遠いは近い、近いは遠い

遠いものは実はすごく近くて、近いものはすごく遠くにある。
そして、近いものは深くて広い。

今日は、これがわかった気がした。最初の一文はとても宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一説に似ていると思った。

「…野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、あるいは三角形、あるいは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱいに光っているのでした。」(角川文庫、1969年、189頁)

私は今、遠いところへ行きたいと願っている。自分の周りと繋がることも求めているが、それよりもまだ見ぬ場所へ行ってみたい、自分を試してみたい気持ちが大きいのである。しかし、そんな思いと共に、いつか今いる場所(物理的にも、世界的にも)に戻ってくる、という直感的な確信もある。今から私は、遠くを目指すのだが、きっとそれは近くに戻ってくることでもあるのだ。そして、辿り着いた近くは自分の中で一番遠い場所になる気がする。きっと深めたくなる。近さの深さと広さを目の当たりにした時、私はここに戻ってくるのだと思う。

すごく抽象的な文章だなあ。

でも、久しぶりに、大学にいた時に使っていた言語で、外の人と会話したのである。それがすごく楽しかった。小学校の時にはわけがわからなくて、頭に残っていた賢治の言葉に、意味が付けられていって、面白い日だった。

今日は、シュタイナー教育について知った日でもある。単純に面白そうだなと思った。「意識高い系」みたいなイメージとかそういう弊害もあるだろうけれど、ルドルフ・シュタイナーの言うことを知ってみたいと思った。読んでみようと思う。

さらに、センスとか頭がキレるとかに対して、すごくいいなと思う自分がいることも気づきだった。そういう言葉で褒められたらすごく嬉しいけれども、私よりもセンスあって、頭キレる人なんてたくさんいるとも思うし、そういう人と関わって刺激を受けたいとも思う。受けたい!!!!でも、自分なんて相手にされないのでは?という気持ちや(実際誰に相手にされなかったのだろう?みんな構ってはくれた)、いや、自分は自分でしかないしなー、結局は私という人間でいるしかできないからな!という「自分」を受け入れる気持ちがある。両方ある!

おやすみなさい。

読んでくださった方へ、何を思って読んでいたのか、読んでくだすったのか、コメントくをだされば、家の前にやまびこをしに走るくらい、喜びます。