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ダッカの喧噪で

早朝4時30分。暗闇のなか、イスラム教の聖典・コーランが鳴り響く。年に一度のイスラムの犠牲祭「イード・アル=アドハー」が行われる8月22日、私はバングラデシュの首都ダッカにいた。うすく細長い雲が覆う街中を、暖色の電灯がうっすらと照らしていた。

島国などをのぞくと人口密度が世界一の国、バングラデシュ。複雑な歴史を経て1971年に独立し、日本の4割ほどの国土に日本の人口よりも多い1億6000万人が暮らしている。バングラデシュとは「ベンガル人の国」という意味だが、大多数をしめるイスラム教徒以外にもヒンドゥー教徒、キリスト教徒など多様な人々が生活している。

自転車に荷台を取り付けた「リキシャ」と呼ばれる乗り物が街中を行き交い、ふと油断すると、土埃がすっと肺に入りこむ。人々が路上でお茶をのみながら談笑する光景が、あちこちに広がっている。人間の生活が、営みが、息遣いが道路に溢れ出ている街。そんな印象を私は抱いた。

イード・アル=アドハーとは、神(アッラー)への捧げ物として4本足の動物、羊や牛、山羊などを屠り、貧しい人々に分け合う犠牲祭だ。ダッカ市内にも大きな牛がいたるところに現れ、男性たちが一頭ずつ丁寧に屠畜していく。

彼らにとって私は外国からきたまったくのよそ者だった。しかし「椅子を出すから座って見学したら?」「写真も撮って大丈夫だよ」と声をかけてくださり、幸運にも一部始終を見学できた。

目の前の牛が、一体の生物から食糧に変わっていく。

牛の生々しい肉体、うめき声、ナイフで切り裂く音と血のにおい。五感を使って屠畜作業をみていると「生き物が食べ物に変わる瞬間」を本能的に感じた気がした。それはきっと、スーパーのプラスチック容器のなかに納まった肉片だけをみていても、想像できない瞬間だと思う。

一連の作業は、男性6〜7人がかりで牛の手足を縄でしばり、横にさせるところから始まった。首の(おそらく)頸動脈をすばやく鉈で切ると、途端にどくどくと血が流れ出る。ホースの水を常に流しながら、腹部を踏んだり手で力をかけたりして、さらに血を抜いていく。それまで鳴かなかった牛が「ぎゅー」と空気のようなうめき声をあげると、吹き出す血の勢いは次第に弱くなった。2、3度ほど手足をばたばたさせると、すーっと命が消えていく気配がした。

血を出しきった後は、様々な方向からフルーツナイフほどの小さなナイフで毛皮をはがす作業が続く。毛皮がなくなり肉だけになると、すでに食べ物としての馴染みのある牛の姿になっていた。

その後も男性たちは手際よく腹部や足、胃、腸などそれぞれの部位に手際よくわけていく。肉片を置いた丸太にナイフがささるごとに、鈍い音が響き渡る。ふと時計をみると、作業開始からすでに1時間が経っていた。太陽は頭のうえに、すっかりとのぼりきっている。気温のせいか、あたりにはすこし生臭い、動物のにおいがたちこめていた。

犠牲祭を実際に見る前、私は色々な書物やネットで事前に情報を集めていた。「恐ろしい」「残酷だ」という文言を読むことも多かったが、いざ目の前の牛と屠畜にあたる彼らの姿をみると「なるべく苦しませないように命をいただく」というあたたかい気持ちを感じずにはいられなかった。いつも肉を食べているのにも関わらず「肉になるまでの営み」を特段考えていない自分の方が、なんだかよっぽど残酷な気がした。

動物を食べるということ。命をいただくということ。

こう簡単にまとめてしまうと、きっとあまりにも陳腐に聞こえるだろう。ただ、私たちがあまり意識することなく食べているものの裏には、色々な命をいただいているというたしかな事実がある。「食育」という言葉がよく使われるようなった一方で、屠畜の現場や畜産業に従事する人々について語られる機会はそう多くない。肉も魚も、綺麗に梱包された切り身をみているだけではわからないことがたくさんある。

飲食店やスーパーマーケットには「特選一等牛」「肉食べ放題」「脂たっぷりの旬の魚」など、消費者の様々な欲を刺激する文言が並んでいる。しかし、人のちょっとした欲望が束になる時、他人を、生物を、自然の営みをどこかで傷つけているかもしれないという想像力は、きっと忘れてはいけないのだと思う。

人はおそらく知識や経験でつくられた主観でしか物事を判断できないし、知識と経験のバランスを取るのはとても難しい。経験を通じてではなく、頭でっかちに知識だけで行動をすると、重要な脈絡からそれてしまうこともある。だからこそ旅をはじめとした様々な実体験や経験に裏付けされた行動は、たしかな熱量を帯びた説得力が伴うのだと思う。

私は旅で経験したことや感じたことを周囲の人に共有したくなる性格だが、きっとそれは「独り占めしたくない」という気持ちが強いからだ。日常では出会うはずのない人に出会い、考えるはずもないことを考えるきっかけを、旅はいつも与えてくれる。道中で感じたなにかは、その後の人生に役立つかもしれないし、全く役立たないかもしれない。しかし頭や心に残った想い出は反芻するごとに様々な色を重ねて、まるでパズルのように、自分の核となる部分を形成していくピースになる。

日常の何かで悩んでいる時、なんとなく心が乾いている時、自分では想像もつかないような世界の断片にふれたり、誰が書いたかもわからない言葉や一文に、ふっと救われることがある。旅も言葉も、そういう可能性をきっともっている。世界を彩る言葉、今を生きる人々から生まれてくる言葉、その人だからこそ生まれた言葉、独特の匂いのある言葉。「素敵だな」と感じる自分のアンテナを信じて、心を使って自分の言葉で考える時間を大切にしていきたい。



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