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ご飯の時間は辛くて苦しい時間

こんにちは。虐待サバイバーの明日葉 ありすです。
今日は、食事について書いていこうと思います。

私は料理が好きです。何というか、理科みたいに、「XXに○○を足すとこうなる。引くとこうなる」という実験が出来るような、そんな魅力が詰まっているのが、私にとっての料理です。

これは、亡くなった母方の祖父母の影響が大きいと思います。
祖父母は雪と山の深い農家の人で、田んぼも畑も有りましたし、季節ごとの山菜も豊富で、蛇口から出てくる水は、山の湧き水を引いてきた物でした。
美味しいご飯が出来ない要素が1つも有りません。

祖父は若い頃、料亭で仕事をしていた時期もあり、祖母は親戚の中でも評判の料理上手でした。雪を避けて私の実家で祖父母が過ごしてくれた数カ月間は、私にとって救われる時間で、祖母の作るご飯が楽しみでした。

この祖父母との時間が無かったら、きっと私は今でも、料理どころか食事すら嫌いだったと思います。祖父母が居れば、父母の容赦ない怒声、罵声が減っていたからです。

祖父母が滞在していない時期の食事、特に父が帰宅した後の夕飯の時間は、苦痛この上ない時間でした。

まず、食事は必ず正座して食べなければなりません。
小さかった私は、足が痺れてくるとモゾモゾ動いてしまっていたようです。そうすると、「落ち着きがない!」と父から怒鳴られます。

お箸を使うようになると、「持ち方がなっていない!」と、また怒鳴られます。萎縮して緊張状態に置かれていた小さい頃の私は、「パパが言うようにお行儀よく、ちゃんと食事をしなければいけない」と考えれば考えるほど、動作がぎこちなくなっていたと思います。

そうすると、うっかりお箸からご飯をこぼしてしまったり、お味噌汁のお椀を引っ掛けて、中身をぶちまけてしまい、更に怒鳴られる事になりました。

怒鳴られるだけならまだ良い方で、たいがいはテーブルに乗っている食器が、私をめがけて飛んできました。でも、避けてはいけません。更にひどく怒鳴られるか、もっと食器が飛んでくる事になるからです。

割れた食器の破片で怪我をした事も有りました。
年数とともに薄くなりましたが、成人した後まで、その傷を見る度、心臓を掴まれるような不快な気分になったものです。

夕食の時間はテレビもついていましたが、父が許可する局の番組しか見てはいけませんでした。具体的には、NHKと、父が良いと認めるアニメだけです。

小中学生の頃は、この父の締め付けが影響して、同級生との会話に全く入っていけませんでした。
流行りのお笑いや音楽番組は、「頭がバカになる」という理由で全く見せてもらえませんでした。同級生と共通の話題が無かった事も、苛められた原因の1つかも知れません。

母も、農家の娘らしく、料理をするのは上手だったと思いますし、表向きは典型的な昭和のお母さんだったと思います。機嫌が良ければ、「今日は何が食べたい?」と聞いてくることも有りました。

父も、自分の持っている知識を披露できるような会話の流れになると、それこそ機嫌よく、様々なことを教えて聞かせました。

ですが、この時おり垣間見せる“父母の優しい一面”は、愛情が欲しくてたまらない幼少期の私にとっては、袋叩きにされ、罵声に晒され続ける原因が自分自身に有るからだと自分自身を洗脳する、強力な材料になりました。

思い返すと、母も料理が上手だったはずなのに、母が作ってくれた料理は全く思い出せません。お正月料理を作るときなどは必ず、「お婆ちゃんの美味しかった昆布巻」や、「煮物はお婆ちゃんがこうしていたから」「お婆ちゃんのお雑煮はこうだったから」に基いてしか作っていないことに気が付きます。

祖母が居なかったら、生きる基本である「食」に喜びなど当然感じられず、単なる苦痛でしか無かっただろうと思います。
私が一次産業の近くに住みたいと思うのも、祖父母の影響だろうと思います。

首の皮一枚で私が命を繋いできた背景に祖父母が居る。
感謝しないではいられません。

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