偶然との戯れ

ヴィパッサナー瞑想の感想、第三弾です。これで以上になります。)

 前回参加したときにも人間にとっての「自然」と「人間」の話には触れたが、今回はそれを少し深めて書きたい。
 だがまず、わたしが見たある「啓示的な」夢の話をしたい。これは忘れもしない2018年8月15日の夢日記からの引用である。

すごく怖い夢だった。あまりに怖くて死んで逃げ出したいと思った。そして、死んでも逃れられないものであるということもわかっていた。拷問を受け続ける。はじめは脱走者の話を聞いたんだと思う。主が帰ってこない間に逃げるのだそう。だがそれでも主にはすぐにバレるし、また連行される。一度おれは罪を犯した。だから、何度でも捕まる。償い続けないといけない。これが、生か。キリスト教的な生か。「西洋の中世」的なイメージがあった。城から逃げ出そうとしていた。一度は外に出た。草原が広がっていた。どこまで逃げたらいいのだろう(そしていつ捕まるのだろう)。捕まればまた拷問を受けるのだろう。償われることのない罪…。生まれ変わっても痛みを受け続ける。他の生き物になっても。生とは、はじめからある大きな塊から彫り出したものなのではないか。したがって、不完全で、窮屈で、不自由なものだ。この世界で、この世界のモノとなってしまったら、消えることはできない。今は拷問されなくても、いつかは拷問される、必ず。掘り出されたもの、とはまさにモノではないか。あらゆるものが消えられない。鳥だって存在が消えることはない。

いかにしてぼくは生きるのか。拷問室をきれいにすることは答えではないように思われる。どの拷問を選び続けるのか。束の間の安楽をすべてだと思いたくはない。それは本質的ではない。

そしてこの夢に関連して、夢日記を書いた直後に書いたメモが以下になる。

理解の範疇を超えたものにかんしては苦しみとして、傷として受け入れる他はない(理解しようとしないと、傷つくこともない。)傷は消えない。癒えない。心の傷も体の傷も。決して他者は理解できるものではないから、ぼくたちは苦しみ続けるしかない。苦しみを享け続けるしかない。傷つき続けるしかない。

苦しみの種類
理解できない苦しみ
消えられない苦しみ

愛とは。この痛みを苦しみを、襞に織り込んだこの存在を与えるということ。犠牲ではない(犠牲であるとすると、痛み、苦しみとなってしまう)。傷まみれの己を与えること、それが愛であり、救われる方法なのではないか。

自暴自棄になってはいけない。愛するということ、苦しみを差し出すこと。痛みがあるから、愛せる。腹を裂かれる痛みが母にはある。

無理に人を愛さなくてもいい。苦しみを知らぬものに愛することはできない。

フロムは愛するということは技術(art)であると言った。だがそれは苦しみからしか産まれない。苦しみを経ないといけない。

もし他の捕らわれ人がいたら、おれは彼らを愛する必要があった。受苦者は自分だけではない。


 この夢は触れたものを噛み砕いて理解する、という手順を踏まずして、直にわたしを襲った事実である。「もしそうだとしたら…」あるいは「もしそうでないとしたら…」という仮定を立てることさえ馬鹿らしくなるほど、この夢はわたしにとって真実であった。起きてすぐにスマートフォンに記録したが、そのときにうまく書くことができず、それでなんとか無理して上に引用した形にまとめたけれども、それでも書きこぼしたことがたくさんあった。書ききることができなかった。頻繁にではないが、ときにこの夢の感覚がやってくることがある。するともう、いったいぜんたいすべてが馬鹿らしくなってくる。解釈はいかようにもできると思う。輪廻だとか被造物だとか不条理だとか、どうとでも言えばいいのだろうが、少なくともそうしてこの経験を短い言葉に押し込めることの馬鹿らしさをもわたしは知っている。
 この日以降、わたしの生活が激変した、なんてことはない。まれに夢の感覚が甦ってきて、なにかしなければならないという焦りと、けれどもどうしたらいいのかわからない、というやるせなさに呑まれるだけだ。でも少し経てばもとの日常に戻る。表面上は特に変わったことはない。
 けれども、この夢が見えないところでなにかの呼び水になっていたのかもしれない。この同じ8月の末に激しくわたしを衝くものがあって、勢いで東京に向かい、そこで会った友人にヴィパッサナー瞑想を紹介してもらったのだった。
 瞑想に参加して、それからまた何ヶ月か経って、結局、自らを苦行に縛り付けるほどにわたしが強くないということもよくわかった。結局どんな恐怖も喉元を過ぎれば熱さを忘れてしまうもので、わたしは日常を、友と吸うタバコを愛している。わたしはふとした人の優しさに泣いてしまう人間だし、人中で生きることがきっと「身の程」に合っている。たとえそれがわたしの弱さだとしても。ときに夢を思い出しては恐怖しながら、わたしはゴロワーズをふかす。

 そんなこんなが土台にありつつ、以降のわたしは生きることとか、死ぬこととかを考えているし、どうせ無常なんだから、って敗北主義的に自嘲したくなることもありますが、でも諦めたくないこともあって、いかんせんなにか一方の側に倒れきるきることはできず、日々境目で苦悶しています。
 前置きが長くなりました。「自然」と「人間」と、そのバランスの取り方の話です。





 ヴィパッサナー瞑想の指導では「自然な」ものを観察するように言われる。「自然な」呼吸を観察するように、とか、「自然な」感覚を観察するように、というふうに。けれども、ここにひとつ引っ掛かりがある。そもそも人間にとって自然なんてものはあり得ないのではなかったか。パスカルが自然は第一の習慣だと言ったように。マクルーハンが皮膚は第一の衣服だと言ったように。あるいはジュディス・バトラーがセックスは第一のジェンダーだと言ったように。
 例えば呼吸を例にとってみようと思う。呼吸の仕方はひとそれぞれだ。息を肺に入れ、空気の交換を行って、そして肺からまた息を吐き出す。この過程は同じだが、呼吸にはそれぞれの人の癖がある。鼻の奥で一旦息をストップさせてから堰を切るように勢いよく鼻から息を出す人をわたしは知っているし、また別に口呼吸が習慣となっている人たちがいる。歳をとれば、喉に息が引っ掛かって擦れる音が出てしまうこともあるし、そうでなくても、蓄膿気味の人は鼻が詰まっているなりの呼吸を行う。そして、これらのどの場合をとっても、当の本人はじぶんの呼吸の仕方に対して透明であるということだ。人に言われるまでじぶんの呼吸が「異質」だったなんてことに気付きはしない。じぶんはじぶんの呼吸を「自然」に思うが、実際それは習慣の積み重ねによって様式化された呼吸なのである。
 また、例を瞑想に移すと、瞑想をしていると自然に頭が小刻みに揺れてしまうという人がいた。その人はじぶんの「自然」が「自然」ではないことに気がついているけれども、同時にそれに安住もしている。いずれにせよ、わたしたちが思う「自然」なんてものはすでに習慣化しているものなのだ。
 こうして考えると、真に「自然」を観察しきろうと思ったら、それは途方もなく困難であるということがわかってくる。人間の個性、その人らしさというのは癖のような細部に表れてくるように思うが(神は細部に宿るもの)、とすれば、その癖を取っ払うということは、その人らしさを失うということにもなる。そして、もしそれをほんとうに成し遂げることができたのだとしたら、そのとき人は誰でもないひとりの「人」になる。それは大文字の人間であるということであり、きっとそれがブッダになるということなのだと思う。
 「自然」を完全に意識の範疇に収めることのできた人、「自然」の人間化を最後までやりきった人がブッダなのだとすれば、その逆もあり得る。つまり、人間性を失って「自然」へと還る場合。そのとき、もはや本能への反省はなく、その人は「動物」になってしまっている。わたしが想定しているのはマルキ・ド・サドの小説に出てくるような、「不道徳」至上主義者だ。今挙げたのは二つの極であるが、わたしたちは日々この狭間で揺れ動いている。人間は、どちらの極限にもいたることができない。パスカルは言う。

「そもそも自然のなかにおける人間というものは、いったい何なのだろう。無限に対しては虚無であり、虚無に対してはすべてであり、無とすべてとの中間である。両極端を理解することから無限に遠く離れており、事物の究極もその原理も彼に対して立ち入りがたい秘密のなかに固く隠されており、彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、彼がそのなかへ呑み込まれている無限をも等しく見ることができないのである。」(『パンセ』より)

 人間はいつもなにかになりきることはできず、いつもなにかとなにかとの間を漂っている。結局なにもわからないまま……。

 わたしはかつて「動物」になりきろうと思った。「自然」に還ろうと思っていた。堕ちるところまで堕ちきってやろうと、低きものを求めていた。だが、人間は堕ちきれるほど強くはない。酔いが覚めれば、また理性が働きだす。
 あるいは、数ヶ月前にヴィパッサナー瞑想を知ってから、わたしは「自然」を乗り越えようと思った。だが、これも続くものではない。いつしか瞑想をする習慣(!)は薄れ、酒を飲み、タバコを吸い始めていた。
 人間にはいつも相反する二つのものが作用する、と言っていたのはパスカルだったろうか。誰の言葉でもいいのだけれど、これはわたしにとってひどく真実味がある言葉だ。高みを目指すときには同じ力で下方に伸びようとするゴムがあって、低いところへ流れようとすると、嫌でも高い空が目に入る。一緒にサーバーをしていた人で、ヴィパッサナー瞑想歴の長い先輩がいるのだが、その人が「ノンデュアリティー」という概念を教えてくれた。この世は二律背反の世界で、善があれば悪がある、光があれば闇がある。だが、そうでない世界というのがあるらしい。そこは二面性(デュアリティー)のない(ノン)世界だそうだ。他の世界のことはわたしにはよくわからないけれど、少なくとも、今生きているこの世ではわたしは片方の極に引かれるのと同じだけ、もう一方の極に引き寄せられるのだというそのことがわかっていれば十分だ。文字通り人間離れした「人間」だけが、片方の極を手にすることができる。相対の苦しみを超えることができる。
 「人間」を超えること、それはわたしには関係のないことだ。この二つの極に裂かれ続けること、この間で苦悶すること、それが人間らしいことのように思われる。わたしは「動物」にも「ブッダ」にもならない。裏を返して言えば、「動物」にも「ブッダ」にもなってやる、ということだ。
 わたしにとって一番退屈な選択肢は何だろうか。「ブッダ」を目指すのでもなく、「動物」に還るのでもなく、かといって、この矛盾を引き受けることなく、今いるこの場に安住しつづけようとすることだ。人間も自然もなかったことにして諦め、あり得るはずのないフィフティーフィフティーを夢見つづけることだ。
 わたしはそんなことをしている場合ではない。この100までしか目盛りのないからだを100%の人間性と、100%の動物性とに引き裂くのだ。相矛盾するふたつを一身に引き受けることだ。そして、その葛藤はひとえに「賭け」という行為に結実する。
 人間は狂気ではないかと前の感想で書いた。わたしたちは意識の領域を正気、無意識を狂気として扱ってきた。人間のうち、理性の部分が正気であるなら、本能の部分が狂気であるというふうに。だがこれは逆で、人間こそが自然の狂気ではないか、と付け加えたい。人間とは完全性、全き予定調和からの逸脱、偶然の産物ではないか。ならこの偶然に生まれでてきた人間にとって最も人間らしいことは偶然性に賭けることではないか。この世に生まれてしまった運命と遊び戯れることが人間らしさではないか。
 理性が自らを偶然の流れへと投げ入れる……。だが、賭けにはその元手が必要だ。偶然の流れへと投げ入れられるだけの理性がなければいけないし、また投げ入れるタイミングを測るのは理性だ。そして、賭けに敗れるとしても(いつかはわたしたちはこの賭けに負けなければならないのだが)それを全的に肯定するという運命愛。
 散歩中に小さな花を見つけてうれしい、ということがあるとする。それは漫然と散歩していたからこそ出会えた花だ。それは運命だ。花と出会うためには、まず、逍遙するという選択、偶然が入り込む余地を与えるという選択が必要であった。もちろん、毎度の散歩が美しい出会いばかりとは限らない。犬の糞を踏むこともあれば、恋人の浮気現場を目にしてしまうこともあろう。だが、それさえも受け入れるという覚悟。
 逓減の命を黙って受け入れるためなら生まれてこなくてもよかった。かといって、来ることのない未来へ向かって溜め込み続けるのも怯懦だ。低い方に少し傾斜しているくらいがきっと人間にとっては「自然」なのだろう。
 習慣を作り上げては壊して、悲歎に暮れては笑い転げて、次の継ぎ目を探している。探していく。生き方がようやく見えてきた。やっとわたしの人間が始まった。わたしは元気です。

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