ヴィパッサナー瞑想の感想(5/5回)

ヴィパッサナー瞑想に関する一連の投稿の最終回です。人間として生きること、それは戯れ続けることではないか。

第1回:●はじめに/●2日目
第2回:●3,4日目/●5,6日目
第3回:●8日目
第4回:●9日目/●10日目
第5回:●まとめとして


●まとめとして

 この世が苦しみに満ちているということ。それを前提として、苦しみを前にした時の対応の仕方は、大きな方向性として、主に3つに分けられるのではないだろうか。
①紛らす
②開き直る
③滅する

 ①はしばしば取られる方法だと思う。つまり、飽きるまでゲームをしたり、ギャンブルに興じたり、それを一生という単位で行う(もちろん「ゲーム」も「ギャンブル」も象徴的な意味において理解したい)。そうしているうちに時が経つのを忘れていて、いつの間にか死が目前に控えている。もっとも「楽な」方法だ。逃避的だともいえる。苦しみはそれ自体消えるわけではなく、先延ばしにされるので、実質的には②と同じだ。
 ②はわたしがずっと取っていた方法だ。つまり、この世は苦しみに満ちていて、人間は受苦的な存在なのだから、もっと苦しめばいい、もっと苦しみを、という立場。苦しみから目を背けてはいない、むしろそれに真っ向から向かっていっている。苦しいのにさらなる苦しみを求めている。はっきり言って、倒錯だ。これは非常に苦しい方法だろう。苦しみへの「渇望」があるからだ。この選択肢から思いつく先哲の名は、工場日記のシモーヌ=ヴェイユ。これは悲観的に過ぎる。
 ③がブッダの教えの立場だと言えるだろう。つまりこの世は苦しみに満ちている、いやむしろこの世は苦しみの集まりなのであるが、それに流されず、観察をし続けることで苦しみから解放されるという立場。人間が受苦的であるということに変わりはないが、その意味するところは、苦しみは人間が生んでいる、ということだ(したがって、苦しみを生まないという選択肢があり得るということだ)。こちらは問題解決的であり、現実的だ。

 10日目の不思議な一体感を経て、わたしは愛する人であり続けたいと思った。いや、厳密には瞬間瞬間、愛していたいと思った。渇望ではなしに、あの調和を取り戻したいと思った。そのためには自分の苦しみに囚われていてはいけない。苦しみに呑まれている人間は恋をすることはできるかもしれないが、人を愛することはできない。愛の名のもとに権威主義的な依存関係を作ることはできるかもしれないが、自立した人間同士が出会う歓びは得られない。わたしは苦しみを滅したい、滅していかなければならないと思った。これからもわたしはきっと次から次へと苦しみを産んでしまうだろう。けれども、新しく苦しみを作らないよう、努力をすることができる。今まで積み上げてきた苦しみを滅する努力をすることができる。わたしは愛せる人であるために、苦しみを滅したい。苦しみを次々と作り、だらだら引きずっている場合ではないのだ。もっと他者と共有すべきものがあるのだ。

 そして最後に、先延ばしにしていた、人間性の話。
 直感的に感じたことなのだが、結局人間性とは狂気のことを指すのではないか、と思った。正気とは言動に連続性、一貫性があることで、狂気とは言動の不連続、断続性のことを指す。
 わたしたちは起きている自分たち、意識の領域を正気であるとし、無意識で起こることを狂気として捉えているが、実際は逆だとも言えるのではないだろうか。つまり、無意識こそ緻密に構造化されていて、意識の側が、それから逃れるように気まぐれにあちらこちらに飛び散っているのではないか、ということ。狂気とは「他者」の別称ではないか。誰だって自分が正気だと思う。それは「狂人」だって例外ではない。
 ヴィパッサナー瞑想の過程でわたしたちは己を過去の条件付けから解き放っていくが、条件付けというのは極めて連続的で理にかなったものではないか。一度こうだったのだから、次もそう、次もそうだったら、またその次もそう、以下同様、というように。もちろんそれが苦しみを生むという事実は変わらないのだが。
 条件付けがほぐされていくなかで、わたしは自分がどんどん透明になっていくような感じがした。心地よい一方で、わたしはそれが怖くなった。やっぱりまだ自分にこだわっていたい。消えてたまるか、という思いがあった。わたしはブッダにはなれない。
 真っ黒に濁ってしまうのはいやだ。だが、透明になりきってしまうのもいやだ。わたしは、沈澱したり浮遊したり、澄んだり濁ったりを繰り返しながら、限りなく透明に近い何かを夢見るのだと思う。

 この感想は結局なにが言いたいのかよくわからない、そういった印象を受けるのではないかと思う。いくつかの書いておくべき前提がわたしの中では当たり前のものとなっているために書かれずにいる、そんな気がしないでもないし、わたしの想念もあっちに行ったりこっちに来たりしている。まとめようとしたけれどもまとまりがないと思う。でもきっと、以上でも以下でもなくそういうものなのだ。そういうものとして読んでくれたら幸いだ。これと違ったふうには、今のわたしには書けない。

 ヴィパッサナー瞑想、これは講話によると、生きる技(Art of living)らしい。実は、コース後半、脳内を巡ってやまなかったのがXJAPANの大曲「ART OF LIFE」なのだが、これもまた何かの偶然、必然ではないだろうか。
 わたしは生きる「わざ」を学んだ。それは生きるための「わざ」であり、生きるという「わざ」だ。そして、生きるということ、それそのものがひとつの芸術でもある。人生というアート、そんなものは描こうとして描けるものではないだろう。それはただ、死の瞬間に一枚絵のように広がっているものであるはずだ。それはわたしのアートだ。だが、それはわたしが見るための絵ではない。また、だれかが見るための絵でもない。そう、だれかのための見世物ではないのだ。それでもわたしは描き続けるしかない。完成を夢見て歩き続けるしかないのだ。結局のところ、わたしはこの今という狂気を信じるしかない、死ぬまで生きるしかないのです。

(以上)


 わたしは人間性とは狂気ではないか、という仮説を述べた。今はこの言葉を「人間性とは偶然性だ」と言い換えたい。人間がどうして存在しているのか、そんなことは誰にもわからないし、こうして存在していることは偶然だと言える(そしてそれをひっくり返す形で必然だとも言える)。であるならば、偶然に身を投じていくことこそより人間的な行為なのではないか。ゴールの見えないものに向かって己を開いていく戯れ、それは賭けの様相を呈する(フランス語では賭けも戯れも同じ"jeu"という言葉で表される)。苦しみへの対応の仕方①のなかで、「ギャンブル」を例に挙げたが、そのような射倖心からくる逃避的な賭けではなく、当たろうが外れようが全的に受け入れるという「運命愛」のようなもの。それこそがわたしには真摯な人間の態度に思える。

 この賭けにおいてこそ、人間の「自然」と「人間」は一致するのではないだろうか。偶然に生まれた人間が己を偶然に捧げること、それは人間として「自然」なことだ。と同時に、賭けにおいてはわたしたちはどこかで己の消尽を望んでいる。この「反自然」もまた「人間」らしい。このアンビバレントな賭けにおいてこそ、人間は人間であることができるのではないだろうか。

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