ヴィパッサナー瞑想の感想(4/5回)

瞑想期間中の感想は今回で以上になる。本当に「人と会う」にはどうしたらいいのか、それを考えていたのが8日目であった。そして10日目にはついに「人と会う」ことを理解する。だがその前に9日目の話をしなければならない。わたしはからだを取り戻さねばならなかったのだ。


第1回:●はじめに/●2日目
第2回:●3,4日目/●5,6日目
第3回:●8日目
第4回:●9日目/●10日目
第5回:●まとめとして

●9日目

 が、その前に、「身体感覚の回復」ということについて述べておきたい。身体感覚の回復、これは長いことわたしにとってひとつのテーマであったのだが、ひとつの到達点をここに見た気がしている。回復というからには喪失がその前にあったわけだが、それがいつであったかはわからない。ただ、気付いたときにはなくなっていた。身体感覚がない、というのは、痛みを感じない、とか寒さに強い、とかではなくて、五感がベールに包まれているような「かんじ」のことを言っている。きれいな絵を見ても、美味しいごはんをたべても、きれいさ、美味しさがどこか遠くにあって触れられていない、また、音にも鈍ければ、においで何かを嗅ぎわけることもない。という「かんじ」。ではなぜベールに包まれていることは分かるのか、というと、強烈に感覚が開く瞬間がたまに訪れるからだ。そのときはたしかに世界(自分ではないもの)と触れあっている「かんじ」がある。だが、気付けばそれは閉じている。幼い頃は世界が輝いて見えた、というのはあながち比喩ではないと思っている。あの頃は本当に大きく開いていた。わたしにはそれを取り戻したいという思いがずっとある。
 9日目、この日から観察の対象が、身体の内部にまで拡張される。そして、これが回復の瞬間だった。
 瞑想ホールを出て、庭を歩いてみた。すると、足の裏で大地を掴んでいるという感覚、筋肉が弛緩、収縮し、このからだを動かしているというリアルが、身体中に満ちた。息を呼吸し、血が巡る、当たり前すぎるこの事実がなによりも新鮮に思えた。からだの重みを感じた。まさに文字通りの重みを。感覚できるからだを与えてくれたなにものかへの感謝の気持ちでいっぱいになった。からだを与えてくれたなにものか、それは、血脈という意味では父と母、そしてそのまた親である祖父母、そしてまた、曾祖父母たち……果ては人間でもなかった生物、ということになるし、もっと大きく視るなら、それは造物主ということになるのだろう。だが、このからだがあるのがどういった理由であれ、今、ここに、生きている命があまりにもみずみずしかった。涙が溢れた。愛が膨らんでいた。
 ヴィパッサナー瞑想には涙は要らないらしい。だが、それがどうした。わたしはからだがあることがうれしくてたまらないのだ。泣いていけない理由などあるはずはない。わたしはここに生きているのだ。

 からだとはなにか。今ならそれが少し言葉になる。からだとは、とどのつまり、イメージを介さないで出会う自分のことではないか、と。今でもそうだが、瞑想をしていると、実際の自分がいる場所に少しズレたところに感覚を感じてしまうことがある。つまりそれは自己イメージにおいて自分を感じているということだ。だが、うまくいくと、身体はぴったり自分がいるこの場所で感覚される。身体の内部を探るなかで、わたしはぴったりの自分と邂逅を果たしたのだ。
 しかし、ひとまず会えたとはいうものの、わたしの瞑想はまだまだ未熟だ。身体内の探求だって不完全なはずだ。そして、このことは、さらなる自分(変な日本語だが)が内にいることを予感させる。探求が進んでいくと、果てには梵我一如という知があるのだろう。自己探求の果てにはブラフマンがいるのだ、きっと(もちろん、頭でわかっていてもなんの意味もないのだが)。
 以上のような身体感覚の回復を経て、わたしたちはコース最終日を迎える。



●10日目

 この瞑想は参加者同士のコミュニケーションが禁止されていると言ったが、実は10日目にはそのルールが解かれるのだ。午前の瞑想が終わると、わたしたちは瞑想ホール以外の場所で会話ができるようになる。
 Alesというスロベニアからの参加者がいた。休憩時間はいちょうの木に抱きついているか、二本の低木の間にあるベンチに横たわっているかしているような人間なのだが、コミュニケーションが解禁されてからわたしは彼と仲良くなる。
 解禁から時間が経って、ある程度センター全体の会話が落ち着いてきたときのこと。わたしが庭に立っていると、Alesが黙ってわたしの横にやって来た。わたしたちは微笑みを交わしてから、ほうじ茶の入ったコップをぶつけて、乾杯をした。そうして一言も交わさず、しばらく一緒に立っていた。それで少ししたら彼は離れていった。
 わたしたちの間に会話はなかった。だが、どんな饒舌な言葉よりも濃密な沈黙があった。彼はわたしに与えてくれた。同じようにわたしは彼に与えた。ここには愛があった。どんな官能的な興奮よりも、わたしたちはひとつであった。愛は相互に、同時に起こることを知った。
 愛のこと、頭ではわかっていた。よく知っていた。だが、本当のところ、なにもわかっていなかった。このときにやっと経験が思考に追いついたのだ。
 わたしは大学1年生の頃に『自由からの逃走』を読んで以来エーリッヒ・フロムが好きで、彼の文章をよく読んでいる。当然、ベストセラーである『愛するということ』も何度も読んでいるのだが、この本がずっと読めずにいたのだと思った。何年もかけて何回も読んでいるのにずっと読めていなかった。けれども、この経験の瞬間、初めて読めたと思った。

 Alesが去ってから、頭には「All Apologies」が流れていた。空は晴れていた。日の下で、ひとつに結ばれ、埋められていく……。
 偶然にも(必然にも)、これはNirvanaの曲だった。


続く

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