ヴィパッサナー瞑想の感想(3/5回)

折り返し地点です。8日目の内容だけで1回分の量になってしまうという。そう、一番辛い夜でした。どうやっても人と会うことができないということ……。

第1回:●はじめに/●2日目
第2回:●3,4日目/●5,6日目
第3回:●8日目
第4回:●9日目/●10日目
第5回:●まとめとして


●8日目
 8日目の晩、わたしは文字どおり、孤独に潰されそうになる。この日までも当然他の参加者とコミュニケーションが取れないという辛さはあったのだが、もともと人とそんなに喋る方でもない。人と会話ができたとしても、いや会話ができてしまうからこそ生じる孤独、というものがあることを、この晩、身をもって味わっていた。コース中で最も眠れなかったのがこの夜だ。

 わたしたちはイメージを介して他者と交わる。つまり、わたしは自己イメージと他者イメージを持って、それらを交わらせる。自己イメージとは常に自分にとって都合のいいもの(見た目がいい、頭がいい、器用だ、などなど)であり、他者イメージは自己イメージを補強するもの、自己イメージに反しないものである。だが、当然他者は自分にとっていつも都合のいい存在であるとは限らないので、他者に自己イメージを押し付ける、あるいは、他者の、自己イメージにそぐわない部分が否認、抑圧される(このイメージに固執してわたしたちが起こす反応こそがヴィパッサナー瞑想で浄化しようとしているところの、「渇望」「嫌悪」だと考えている)。また、わたしが自己イメージと他者イメージを持つように、わたしにとっての他者も自己イメージと他者イメージを持っている。わたしたちは互いにイメージで相手を捉え、イメージの中で他者を消費する。わたしたちはひたすらすれ違い続ける。わたしが誰かと会話をするときには言葉を交わし合うが、そこにあるのはイメージの破壊と創造、強要と否認の応酬だ。「わたし」の自己イメージが「あなた」にとっての「わたし」のイメージに限りなく近づき、そして同時に「わたし」の持つ「あなた」のイメージと「あなた」の自己イメージが限りなく近づくときにだけ、わたしたちは相性がいいね、馬が合うね、って認め合うことになる。なんて近くて遠いんだろうか。この「会えなさ」にやりきれなくなっていた。同室の参加者が横で寝息を立てている。だが、たとえ彼と会話ができたとしてもわたしは彼と会うことができない……。

 そう、わたしたちはただひたすらにイメージを「持つ」。持ち続ける。
 Twitter、InstagramなどのSNSや、メディアを考えてみればよくわかる。わたしがアップするのはわたしの自己イメージに近い写真であり、そのときわたしは「これがわたしです」と主張している。わたしはときどきポートレートを撮ってもらうのだが、撮影者にとっての「よく撮れた写真」と、わたしにとっての「よく撮れた写真」はしばしば異なる。それは撮影者による葦田イメージと、わたしによる葦田イメージの違いだ。今も、noteにおけるこの投稿においてわたしは自己イメージを提示、強要している。
 また、メディアを例に出せば、もはや現実はメディアによって収奪されていると言いたくもなる。わたしには北海道で本当に雪が降っていることがわからない。本当に北海道のどこかである特徴を持った雪が降っているから、メディアはそれを報道するわけだが、わたしたちはもはやその経路を飛ばしてしまって、ニュースが「北海道で雪」と言うから、北海道で雪が降っているのだと感ずる。私たちのイメージにはのっぺりした北海道だけが浮かんでいる。
 これは天気に限った話ではない。悪人はメディアによって悪人にされる。どんな悪人にも好きな食べ物があって、好きな音楽があるということ、彼らもひとりの人間であるということを忘れてしまう。この人はこういう不法、不徳を犯した。だからこいつは「あちら側」の人間だ、と。繰り返し報道されることで、つまり情報の取得を越え、情報の確認がなんどもなされることによって、「悪人」が悪人になる。
 メディアを目の敵にしているように聞こえるかもしれないが、必ずしもそうではない。メディアの側にも実際に「真実」を報道しようとしている人たちがいるのを知っているし、メディア無しにはわたしたちはほとんどなにも「知る」ことができない。そう、これはメディアの性質の話だ。そしてそれを受動的に消費しつづける、「消費者」の性質の話だ。
 街頭で民間人がインタビューを受けると、彼らはしばしば「街頭でインタビューを受けている民間人」みたいな受け答えをする。本当に思っていることがあっただろうに、もはや自分にもそれが見えなくなっている。メディアの目でものを見ている。わたしには身内の死までくれてやるつもりはない。
 結局、どこまでもわたしたちはイメージに包まれ、それに頼っている。

 また、わたしたちは主観を内にあるもの、客観を外にあるものとして捉えているが、本当は逆なのではないか。
 完全に没交渉的な、誰にも伝えられないような、内にあるわたしだけの感覚。イメージや言葉を介さないで直に触っている感覚。いわゆる主観だ。だが、これこそ疑いようのないもの、客観ではないか。そしてこれこそデカルトが思考の出発点を求めるために行った方法的懐疑であり、そしてその結果としての「我思う、故に我あり」ではないか。こちらはあんまり知らないけれども、現象学の人たちの言う判断停止もこういうものなのだろうと思う。
 (ちなみに、「我思う、故に我あり」は「思考している自分」をはじめから前提に置いている、として反論ができるらしいのだが、ここでは深追いしない。ヴィパッサナー瞑想では、「哲学的な」議論は望まれていない。ここでいう「哲学的な」というのは、経験に則していない知的快楽だ、というネガティブな価値判断である。)
 わたしたちは「客観的な」数字を扱う。身長体重、偏差値、速度、などなど。だが実際、1センチの差が何の差なのか、感覚としてはなにもわからない。指の関節ひとつぶん、などの例えを経ずしては、いや経たところで想像しかできない。そして、その例えのレパートリーは人によって異なる。1センチとは唇の厚さなのか、爪の長さなのか。指の太さも長さもわたしたちはバラバラだ。偏差値60の学校が偏差値55の学校よりどのくらい、「高い」のか。そんなことは体感的にはなにもわからない。むしろ、感覚では外のことなどなにも直接に触れられないから必死こいて物差しを作り、あてがおうとしているのだと言うこともできる。
 わたしたちはどこまでも他者と共有できない客観を内に持ち、そして他者と接する部分ではイメージを介する。そして、イメージを経ることなしには(イメージを経たところで)他者と接することができないから、「客観的」指標を好む。
 わたしたちはなぜこんなにもイメージに頼るのか。理由はいくつかあるだろうが、「現実の厳しさに覆いをかけたいから」ではないかと思っている。現実とは恐ろしいもので、下手に直面すると、呑まれてしまう。2日目のわたしのように。
 ヴィパッサナー瞑想の「ヴィパッサナー」とは、パーリ語で「あるがままに見る」という意味らしい。この瞑想はひたすら現実に直面する過程だ。そして、その波に飲まれず、苦しみとその原因の生滅を冷静に観察する過程だ。
 参加者のひとり(素敵なおじさんだ)がわたしにこう言った。「23の若さでこんな機会に巡りあえて、幸せなことだけど、かなしいことですよね。」と。ニュートラルな心持ちで、わたしはまさにそうであると思った。「本当にかなしいことだと思います。」
 ブッダの教えはたしかに大方において悲劇味を帯びている。その教えを受け入れるなら一度は悲観主義を経なければならないと思う。それを越えないと、ショーペンハウアー(インド哲学、ブッダの教えをよく学んだ人であったが)のような反出生主義を抱くことになる。だが、新たな命の受け口を減らしたところで、それは根本的な苦しみの解決にはならない。
 そう、わたしたちは無常で、「私」なんてものは存在しない。そして意識が、執着があるからまた生まれてしまう。そんなことを、ピチピチの若さを「使いきる」前に、その快楽を享受しないままに、知ってしまうことはかなしいことなのだと思う。実際、参加者の年齢層は幅広かったが、わたしを含む数人が一番若い年代だった。だが、いつか死んでしまうものなら、はやく知った方がいいのかもしれない。移ろいゆく一瞬一瞬しかわたしたちにはない。

 この期間中にひどく頭に浮かんでくる映画が二つあった。それは『マトリックス』シリーズと『ショーシャンクの空に』である。先に参加した友人のYも映画に例えて感想を述べていたけれども、わたしも映画の「イメージ」の力を借りて少し述べたい。
 『マトリックス』には主人公ネオが選択を迫られるシーンがある。赤い錠剤を飲むか、青い錠剤を飲むか。それは、目覚めるか、元の日常に戻るかの選択肢である。この分岐に目を閉ざすことはできない。選ぶしかないのだ。
 また『ショーシャンクの空に』も、ショーシャンク(刑務所)をこの世のメタファーと見て、鑑賞することができる。たとえば、印象的なセリフに「始めは憎み、やがて慣れ、しだいに頼るようになる(刑務所の塀のこと)」とか「希望は危険だ、正気を失わせる、塀のなかでは禁物だ」「終身刑は人を廃人にする罰だ、陰湿な方法で」「刑務所では何かをしてないと気が変になる」といったものがある。
 そして、もっとも好きなセリフがこれだ。
「選択肢は2つだけ、必死に生きるか、必死に死ぬか」
 『マトリックス』におけるネオも、『ショーシャンクの空に』におけるアンディーも、解脱を成し遂げた存在、ブッダなのだというひとつの解釈を与えることができる。
 わたしは分岐に立たされている。苦しみを前にどちらの錠剤を飲むのか。必死に生きるか、必死に死ぬか。この選択肢を突きつけられるにはわたしはきっと「若すぎた」。

 この世は本当に無常だ。だが悲観しかできないのかといったらそうでもないということもわかっている。ここに大きな希望、救いがある。イメージを介さず、人と出会うことができる可能性がある。非常に稀ではあるが、本当にわたしは人と会うことができる。
 そう、イメージを持つことをやめて、「わたし」が「わたし」であればいい、「あなた」が「あなた」であればいい。そして、その「わたし」と「あなた」が出会えればいい。
 でもどうやって?
 そこで『経済学・哲学草稿』の一節を思い出すことになる。

「人間が人間として存在し、人間と世界との関係が人間的な関係である、という前提に立てば、愛は愛としか交換できないし、信頼は信頼としか交換できない。芸術を楽しみたいと思えば、芸術性のゆたかな人間にならねばならない。他人に影響をあたえたいと思えば、実際に生き生きと元気よく他人に働きかける人にならねばならない。人間や自然にたいするあなたの関係の一つ一つが、輪郭のはっきりした、あなたの意志の対象に適合した、あなたの現実的・個人的な生命の発現でなければならない。あなたが愛しても相手が愛さず、あなたの愛が相手の愛を作り出さず、愛する人としてのあなたの生命の発現が、あなたを愛される人にしないのなら、あなたの愛は無力であり、不幸だと言わねばならない。」

 わたしがわたしであらねばならないのだ。そして、犠牲ではなしに、そのわたしを与えねばならない。そうして、それがうまくいけば、相手もただ「ある」ことができる。そして、相手にも愛を生むことができる。
 わたしはそのことを10日目に経験的に知ることになる。


続く

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