ヴィパッサナー瞑想の感想(1/5回)

 3月5日から3月16日までヴィパッサナー瞑想に行きます。正確にはそのボランティアをしに行きます。この間は基本的に連絡が取れません。ヴィパッサナー瞑想に参加するのは今回で2回目。前回は去年の秋頃でした。そのときにしたためた約14000字という超長文の感想があります。こんなにも長くなってしまったのは、その体験の濃密さもさることながら、これまでの人生で考えてきたことの総括という側面もあるためです。今回はそれをnote用に編集しました。今日から5日間、5回に分けて投稿していきます。是非ともご覧ください。

 以下のように分けて投稿します。「●はじめに」と題したところで簡単にヴィパッサナー瞑想の環境を説明し、以下、「●X日目」のところで、その日に起こった大きな感情の波を記述していきます。最後に「●まとめとして」で全体を振り返ると同時に、生きるとは、という問いに一応の(そして当然暫定である)答えを与えています。

 今回は第1回です。

第1回:●はじめに/●2日目
第2回:●3,4日目/●5,6日目
第3回:●8日目
第4回:●9日目/●10日目
第5回:●まとめとして

●はじめに

 ヴィパッサナー瞑想、というものに参加してきた。その感想を述べようと思う。わざわざ感想をしたためるのは、おそらく生きるということにおいて、これほど大きな学びはなかったように思われるからだ。とんでもない文量になる予感がある(約14,000字)。 この瞑想を紹介し、勧めてくれたのは友人のYだ。今年の夏、このまま大阪にいたら死んでしまうと思い、逃げるように東へ、そして東京に行ったときに教えてくれた。振り返ってみると、インターンでの彼との出会いから、東京訪問、そして今回のヴィパッサナー瞑想参加と、ひとつながりの縁に導かれたような気がしている。Yにも、この縁にも、まずなにより感謝である。

 さて、ヴィパッサナー瞑想。
 一口に瞑想、といっても、瞑想にも種類があり、それぞれの瞑想法には特徴がある。寡聞にして他の瞑想法に詳しくないので、わたしには比較して述べることができないのだが、このヴィパッサナー瞑想の目的は徹底的な自己観察を通じて、己の苦しみとその根源を滅却することにある。また、こうしてコース後にわたしは感想を書き連ねていこうとしているわけだが、この瞑想は究極的に経験的、現実的な過程であるため、なるべく事後的な説明、解釈をしたくないと思っている(コース中のメモ書きは禁じられているが)。わたしの以降の記述が、胡散臭そうに聞こえるかもしれないし、あるいは好奇心を掻き立てるもののように聞こえるかもしれないが、いずれにせよ、わたしの「記述」は不十分であるということを念頭に置いてお読みいただけたら幸いである。わたしはわたしの経験した「事実」を、真摯に書き留めていくつもりである。
 そもそもヴィパッサナー瞑想とはいかなるものか。詳しくはホームページに書いてあるので、気になる方はそちらを見てほしい。わたしからはわたしの経験を書き記すのに必要な範囲だけに説明を留めておきたい。

 まずはスケジュール。わたしは10日間のコースに参加した。集合が1日目の前日夕方、解散が10日目の翌朝であるため、実質12日間はこの瞑想のために空けることとなる。
 一日の主なスケジュールは以下だ。
ーーーーーー
4:00 起床
6:30〜8:00 朝食と休憩
11:00〜13:00 昼食と休憩
17:00〜18:00 ティータイムと休憩
19:00〜20:30 講話
21:30 就寝
ーーーーーー
 起床後就寝前の30分と上記の時間以外は4:30から21:00までひたすら瞑想である。短くて1時間、長くて2時間がまとまった時間として瞑想に当てられていて、その間に5分ほどの休憩が入る。トイレに行ってお茶を飲んで、それでだいたい休憩時間は終わってしまう。瞑想の指導に変化はあるものの、このスケジュールは最終日までほぼ変わらない。

 このヴィパッサナー瞑想は徹底的な自己観察をするということであった。徹底的な、とは、神仏のイメージや言葉(マントラ)を介さないということだ。自己を見つめる機会を損なわないよう、10日間のコース中は参加者同士コミュニケーションを取ることを禁止されている。声を使った会話はさることながら、ジェスチャーや筆談等の言葉によらないやり取りも交わすことができない。センター内では身体の接触も避けねばならず、となると、必然的に常に周囲に意識を張り巡らせる必要が出てくる。また、スマートフォンはもちろん、書籍や音楽プレーヤー、筆記用具などの、「気晴らし」になるようなものは初日に預けることになっている。
 つまり、わたしは人に囲まれて、人と一緒に生活していながらも、彼らと接触することができず、また、書籍や音楽といった「他者」に耳を傾けることもできず、10日間、ほんとうにひとりぼっちだったということだ(もちろんそれは10日間という期限付きのものであるのだが、それゆえに、しばしばコース中には、「コース後はあんなことをしよう、こんなことをしよう」という妄想が膨らむのである)。

 では以降、わたしの具体的な経験を語っていこうと思う。わたしがここで感じていた変化は、単線的なものではなかったのだが、かといってその複数の流れを複数の流れとしてうまくまとめて書くことも今はできそうにないので、時系列で述べていく。記述するのは主に、大きな感情が沸き上がってきたときのことだ。


●2日目


 2日目の昼食後、始まって早々であるが、わたしは涙が止まらなくなってしまう。非常に近い「イメージ」があるので引用したい。「WHIRLPOOL」というきのこ帝国の曲からだ。そのときわたしは「仰いだ青い空が青すぎて」泣いていた(「WHIRLPOOL」が収録されているアルバム『渦になる』がコース前半の間、ずっと脳内を流れていた)。いいや、本当はどんなに近いイメージ、言葉であっても不十分だろう。そのときわたしは「今わたしがここにいること」の重みに耐えきれなくなっていた。今わたしがここにいる必然に、あるいは偶然に──つまるところそれは同じことをしか意味していないのだが──耐えきれなくなってしまった。青すぎる空、流れていく雲、色づいては散っていく木の葉、目の前に生えている芝、鳥の鳴き声、わたしがここにいること、これがこうでしかないという事実、あるいは、これがこうではなかったかもしれないという他の可能性、そんなことが一気に頭を駆け巡ってわたしはわけがわからなくなっていた。存在が危ぶんでいた、とでもいったらいいのだろうか。その時の状況は「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている」ということかもしれない。あまりにも近くに、すぐそこに、淵がひらけていた。わたしはあまりの深みに呑まれる思いがした。今までわたしが感じてきた怒り、悲しみ、歓び、全てが巡り巡っていた、わたしの器はこれに持ちこたえるには小さすぎると感じた。生きてしまっていることが怖くなった。でもそれは、「死にたい」を意味しない。むしろ、死んでも逃れられないという恐怖だ。なんとしてでも生きねばならないという、責任のようなものだ。この不可解に、部屋に戻って、布団にくるまることしかわたしにはできなかった。そうしてなんとか仮眠を取った。
 ヴィパッサナー瞑想に涙は要らない、ということがのちに講話で言われるのだが、わたしはこの後もなんども極まってしまうことになる。


続く

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