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なぜ自分の意見が恥ずかしいのか?

プログラミング未経験の文系女子大生インターンが以下のように書いているのだが、なぜ、自分の意見・アイデアが恥ずかしいのだろう?

「FRIENZOO」~新アプリ制作中~
http://www.materialize.jp/art/android/9199/

名づけが恥ずかしい
「名前考えて」、私はこれを言われると逃げ出したくなってしまいますw
なぜなら、アプリ名は開発者にも使う人にも何回も呼ばれる名前だし、
センスゼロの名前つけて恥ずかしい思いをしそうだからです(*_*)

自分も学生の頃と、社会人なりたての頃は、そうだった。特に学生の頃が酷かった。

社会人になって変わったのは、自分の意見・アイデアを言わないと評価されないから。どんな些細なことでも言って波を立てられれば評価されるから。

だから、学生の頃は、逆だったわけだ。

何度も書いてきたことだが、褒めたり評価したりが、やっぱり基本的に日本人はみんな下手くそで、学校にいる多感な時期に、教師や同級生を含めて褒められる機会がなく、逆に笑われたり評価されなかったことが、無意識にトラウマになるのだと思う。メンタルの強いやつしか意見が言えない、みたいになってて。

前に書いた小池百合子の「あれもだめ、これもだめ」の話もそうだが、意見を出してダメって言われて、結局、否定されて、クラスの中の強いやつの意見に同調してればいいやみたいになってくる。

子どもが、赤ん坊として生まれ出て、潜在的に他人を否定する感情を持って育つだろうか? やっぱり教育なんだと思う。自分は親に趣味とかとにかく色んなことを片っ端から否定されてたから、学生の頃は完全に無趣味だった。大人になってからめちゃくちゃ読書したり絵を書いたりした。

今、というか、もう何年も前からだけど、褒める技術の話がすごく企業で注目されていたけど、いやいや、それを義務教育中にやれよ。大人になってからトラウマを克服するために褒める技術を身につけるのではなくて、義務教育のうちから、そう育てなさいよ。

子どもに対して厳しかった学校が、厳しくなくなって、子どもははっきりと分かるくらいに様変わりしたわけだけど(ゆとりとかいわれてたけど)、厳しかった学校を厳しくないにしてしまう、褒める学校へ転換できないのが、日本の本当に悲しいところだと思う。

「落ちこぼれ」なんてもう死語なのかもしれないが、まあ、これも枯れた話だが、どこか褒めるところを見つけてやれば、より一層の闇を抱えないで済むのだろうし、会社だったら、完全に使えないやつを訴訟覚悟で切り捨てるか、なんとか使える道を探し出してやって、なんとか利益に変えようとするわけだ。会社にとっては情ではなく金の問題なんだけど、金が絡んでやっと、使えないやつの使える道を探してやるっていうのが、社会に出て面白いと思ったことでもあった。

教育機関で、だめなやつがだめなままでも、お咎めがないってのが、根本的にダメなんだろう。大人に責任がない。会社だったら上司の責任になってお咎めあるから。部下をうまく育てられなかったって、忘年会でみんなの前で号泣する人もいたんだから。学校は、自分の意見も堂々と言えない子供らを排出して、そろそろ恥ずかしいと思ってくれないかね。

社会が、会社が、自分の意見を言える場を作ってあげなきゃならないって、絶対におかしいでしょう。学校は社会に出るための訓練場のはずなのに、まず、会社に入ったら学校の尻拭いしてやらなきゃならないって・・・。

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