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童貞・処女だからでしょ?と言われて、もがいたアセクシュアルの話

人に性的に惹かれることがない、アセクシュアルかもしれない、という話をすると、「セックスをしたことがないから、そう思うんじゃない?」という反応が返ってくることがある。

この社会ではなぜか、セックスをしたことがないと、「未熟」「子ども」「分かっていないやつ」「イケてないやつ」みたいな扱いをうける。童貞はネタにされるし、処女は謎の「そのままでいいんだよ」という扱いをうける。上から目線で。

私は焦っていた。馬鹿にされるのはもう嫌だった。アセクシュアルかどうかを確かめなくてはいけない、そう思った。

そして、セックスをした


もし、「自分がアセクシュアルかどうかを確かめるために、セックスをしなければいけない」と感じている人がいたら、どうか焦らないで欲しい。(そして、どうしてもというなら、私のこの記事があなたの役に立つかもしれない「【アセクシャルの人たちへ】もしセックスをするなら、その前に知っておいてほしい5つのこと」)

セックスは一人ではできない。相手が必要な行為である。当たり前のことだけれど、当時の私にはよく分かっていなかった。

相手を傷つけないためにも、自分を傷つけないためにも、「実験」のためにセックスをすることはオススメしない。見当違いの批判をしてくる奴なんて放っておけばよい。これが難しいのは重々承知だけど。


私は幸運にも、相手が良い人だった。

性的に惹かれるという感覚は分からないままだけれど、幸せな経験をもつことができた。だが、私はただラッキーだっただけ。最悪な経験になっていた可能性は大きい。

「性的な体験を持ったら、自分はアセクシュアルではないと気づいてしまうかも」そう不安に思っている人がいたら、不安に思う必要はないと伝えたい。

アセクシュアルというタイトルは、今の自分を肯定できるのなら、今の自分が自由になれるのならば、貼ればいい

アセクシュアルではないかもと気づいて、アセクシュアルを名乗ることが苦しくなったのなら、アセクシュアルというタイトルを剥がしてもいい


セクシュアリティは、体験によって変化するものではない。

だから確かに、セックスをしたら、アセクシュアルではないと気づいたというのは、「真の」アセクシュアルに対する誤解を生む可能性がある。

でも、自分が「真の」アセクシュアルかどうかを悩む必要はない。アセクシュアルというセクシュアリティは、まず自分のためにある。

自分がアセクシュアルというカテゴリーの中で、居心地よく感じるのなら、それでいい


自分のセクシュアリティについて、認識がゆらぐこと、もっと的確な表現を見つけることは、ある。そのことを恐れる必要はない。

ただ、「アセクシュアルではない」と気づいた人たちにお願いしたいのは、他の人のアセクシュアリティについて語らないでほしいということだ。「アセクシュアルというのは、存在しないのだ」と言わないでほしい。

確かにあなたはアセクシュアルではなかったかもしれない。でも、アセクシュアルの人は確かに存在するのだから。


私は幸せなセックスをした。私はアセクシュアルである。

このことは矛盾しないのだ。


(不覚にもR18指定されてしまった...撤回してもらえるように申請中→2020.09.24 R18指定解除されたっ!よかった!)


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