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肉体に無関心なデジタルネイティブ世代と、性教育の必要性

私は20歳ごろまで、女性の下半身の穴の数を正確に知らなかった。

私は生まれたときからずっと、教科書的に標準なメスのからだを持っているのにも関わらず、である。

私に穴の数を教えてくれた人は、同い年の友人である。彼女もまた、自分の肉体の構造を知らなかった。びっくりして私に教えてくれたのである。私たちは20年も生きてきた、生理もあった、でも肉体の構造を知らなかった。


この話を年上の人たちにすると、心底驚かれる。「20年生きてて、なんで?」って。「別に性的な行為をしたことがなくても、生理があるんだから、分かるでしょ?」そう言われる。「性教育受けなかったの?」とも言われる。

性教育をうけたのに、なぜ無知だったか。

保健の授業がどうしようもなく苦手だったアセクシュアルの反省と願い」という記事でも書いたけれど、私は「恥」という感覚のせいで、まともに性教育を受けることができなかった。目の前で言われている事象と、自分を結び付けて考えることができなかった。教科書に載っている「女性の図」を自分のからだとを結びつけて考えることができなかった。

生理があるのに、なぜ自分の肉体について分かっていなかったか。

それは私が肉体的な感覚というものを軽視してきたからだと思う。生理中、意識してみると、確かに自分の体内から血が流れる感覚とか、自分の骨盤が変化する感じが分かる。だけれども、以前の私は、痛みを紛らわすことばかりに気をとられ、自分の肉体を”何だか煩わしいもの”と捉えていた。だから意識を向けなかった。自分のからだの細部を見ることは怖かった。


20年も生きてきたら色々と自然にわかるだろう

この感覚が、今の日本の性教育の根底にあるものだ。でも、それは年上の世代の(たぶん昭和生まれの)感覚だ。平成・令和生まれの実情を知らない、勝手な感覚だ。

日本の性教育に危機感を覚え、性教育を充実させようとしている人は、「20年も生きてきたら色々と自然にわかるだろう」ということが、若い世代に対しては通用しないことを感じているのだと思う。


なぜ平成世代と昭和世代でこんなにも断絶が生まれているのだろう、と考えたときに思い当たるのはインターネットの普及だ。

平成世代の私にとって、インターネットは物心ついたころからずっと近くにあるものだ。なかった時代を知らない。遠く離れた人と交流を持てるのは「当たり前」で、オンライン授業とは、もう10年来の付き合いである。パソコンのなかに私の知識が詰め込まれている気がするから、一時期はもう肉体なんていらないんじゃない?って思っていた。身体を必要とする交流、オフラインで友人に会うとか、学校に通うとかは、それはそれで特別な価値があると思っている。だけど、肉体を持っていると、お腹も空くし、眠くなるし、病気になることもあるし、性被害にあう危険が常に付きまとうし、やっかいだなと思うことが多い。肉体なんてない方が、みんなより対等に付き合えていいのに、って思う。どんな外見でも、どんな性でも、老いも若きも、目が見えなくても耳が聞こえなくても、オンラインではオフラインよりもそれが「問題」となることが少ないから。

こんな感覚で生きていると、肉体を介して情報を得るということが疎かになりがちである。インターネットがない時代に生きていたら、「色々と自然に」わかっていたであろう情報の多くを私は得ていない。

知らないということは、「怖い」という感情につながりやすい。私は肉体が怖かった。得体の知れないものとして、怖かった。

もちろん、デジタルネイティブ世代にも肉体をこよなく愛する人たちはいる。医療職、筋肉オタク、アスリートたちと偶然出会ったことで、私は肉体を愛するという概念を知った。肉体が少し、怖くなくなった。


このような偶然の出会いに賭けるのではなく、性教育の拡充を、と思うのは、インターネットが普及すればするほど、偶然の出会いというのは減っていくからだ。(インターネットのフィルタリング機能を変えれば、偶然の出会いをインターネットで生むことは可能という説もあるけれど)

「そんなものは”教わる”ものではない」昭和世代からはそんな声も聞かれる。うん。こちらはインターネットの使い方を教えるから、そちらは肉体について教えてくれませんか?そうやって一緒に生きていきませんか?




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