ペンギンの憂鬱
最近読む本や勉強する曲がロシアおよび東欧周辺の国に縁があるので、積読だった
アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』
#読了
売れない短編小説家ヴィクトルは、新聞に載せる「追悼文」のゴーストライターを依頼される。
しかしそれは対象者が死ぬ前に原稿を書き溜めるという条件。
全体的に不穏なんだけど、どんなに不穏な社会状況にあっても人はやっぱり個人的な悩みを忘れないし、生活していく。
追悼文の性質上、「友人一同」という匿名で書くことになるんだけど、
表現活動をする者にとって、反応されなかったり反響がなことに対して、うーん…てなるの、わかるわ…!!と思いました🥺
あと特殊能力のない「SPY×FAMILY」はきっとこんな感じとも思う…不穏でも私は楽しく読めました!🤣ソーニャ(アーニャ枠)とペンギンはとても可愛いよ!
さて作者クルコフは、ウクライナのロシア語作家であるそう。
ウクライナ語で書かず、その立ち位置の定まらなさゆえに、なかなか正当な評価がされにくかったらしい。
立ち位置の定まらなさ、自分で書いておいてアレだけど、一体なんだろう?
同じ言語を使うかどうか?
何も国家レベルの大きな話にしなくても、私達にもある。
方言、仲間同士のフランクな会話、若者言葉、陰でのあだ名…。
言語は仲間を結び、仲間を別つ。
それはロシア読者が、ウクライナ読者がどうとかいう話ではなくて、どうやら歴史に関係する。
先日読んだ本には、ウクライナ文学について「ヨーロッパ文学を目指すべきか、ロシア文学を志向すべきか」の議論がかつてあったことが書かれていた。
また、政権が変わるたび「上からのロシア化」「上からのウクライナ化」が繰り返され、母語を強制的に変えさせられた過去があることも知った。
言語の影響力は、強い。
私たちは翻訳された日本語で読むので、面白いと思ったら素直にその作品の面白さを享受していけばよい(また、それができる)けれど、
私たちの手元に届くまでに長い長い道のりがあったことを知った。
また音楽は言語を越えてコミュニケーションできるとよく言われるけれど、その万能感ある言葉で、見えていないものはないだろうか?
例えばクラシック音楽は他の音楽に対してとても「西洋的」立場である。
私の音楽に対する立場もそう。
今さまざまな音楽や文学を味わっていく中で、
一方の結び目がほどけたと思ったら、代わりに予想外の箇所で別の絡まりがたくさんできてしまうことを繰り返している感覚がある。
これ、いつか全部ほどける時が来るのかな…と思いながら、また手近にある固い結び目から手をつけていこう。
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