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信仰について(4)個人と組織のお金の話。まずは個人のことから。

宗教については専門的に勉強や研究をしたことがあるわけではなく、あくまでその渦中にいた経験をもとに考えてきたにすぎません。だから、どうしても想像の域を出られないことが引け目に感じられて、書くのが憚られてきたテーマですが、せっかくなので気が済むまでいろいろ書いてみたいと思います。今回は4回目になります。

信仰について(1)まずはじめに、私自身の信仰観を語ってみるなど
https://note.com/asako_emerald/n/n4d5d745b072c
信仰について(2)教理や行動規範で示される「形」について考えてきたこと
https://note.com/asako_emerald/n/n79270864006e
信仰について(3)互助会的機能を持つ団体として捉えてみると
https://note.com/asako_emerald/n/n7c998f358de3

今回のテーマは、「お金」です。信仰と、お金。このテーマについては、私も自分の中で結論があるわけじゃなくて、まだうまく言葉にできないところがあります。でも、避けるわけにはいかないので、チャレンジしてみようと思います。

お金の話は、「個人(出す人)」と「組織(受け取る人・団体)」に分けて考えたほうがいいかな、ということで、まず「個人(出す人)」の話から書いてみたいと思います。

私が、信仰のある家で育ってよかったと思うことの1つに、この「お金」に対する感覚があげられます。
一般的には、お金は「等価交換」をするためのツールとして捉えられていて、つまり出すことによって、それ相当のモノやサービスといった恩恵を、(たいていはその場ですぐに)得ることができるという前提で使われていると思います。
このとき重点が置かれているのは、お金を出すことによって、手に入るもの。お金そのものではなくて、お金があることによって手に入る「自分の欲求や望みが、思い通りに叶えられる」という状態に、重きが置かれている。自分の欲求が叶うことにポイントがあって、そのために利用するものだから、お金は「使う」という表現をされるのだと思うし、「出さないほどいい」という発想に繋がるのだと思います。少ない原資で、多くのものを手に入れたい、という心理。そりゃそうですよね。ありがたいし、普通に考えてそのほうがラッキーです。

それとは別に私が持ってる感覚がもう一つあって、これが私の場合は信仰に関わったことによって身についたと思っているんですけど、「お金を出すことそのもの」に、重点を置くという考え方です。
まだここはうまい言葉にまとまりきらないところですが、敢えて書くとしたら、お金に「自分の欲求や望みが、思い通りに叶えられる」ためのツールとしての役割ではなく、「欲求や望みのもとになっている、自分の執着や思い込みを手放す」ための一つのシンボルとしての役割を与えている、という感じでしょうか。ちょっと語弊があるかもしれないけど、「出すことそのものに意味がある」くらいの感覚かもしれません。だから「使う」っていう表現にはならないんですよね。ただ「出す」という感じ。

宗教の門を叩いたり、信仰者や布教者と言われる人たちとの関わりが必要とされる状態にあるときというのは、なんらかの理由で「今の状態がつらい、苦しい」と感じていることが多いです。これは信仰とは別に、人の心の仕組みやカウンセリングについてなど自分でいろいろと勉強しながらわかったことですが、そういう状態にあるときというのは、例えて言うなら、ぎゅっと何かを握りしめているような感じ。「こうあるべき」とか「こうなってはいけない」とか、なにかとにかく「失いたくないもの」があって、(それが失われそうな気がしていて)ぎゅっと握りしめてかたくなになってしまっているようなところがあるようです。
何が理由なのか、経緯はどうなのか、そういうものをひも解いていくことが大事なんだと思うけれど、それも何もまずはその握りしめた手を離さなければ。話も入ってこないし、冷静に考えていくことが難しいと思うんですよね。そういうときに、「失いたくないもの」の象徴として、お金を出す、手放す、ということが役に立ってくれる側面が、あるような気がしています。

ぎゅっと握りしめているものから手を放すことが、信仰の門を叩く人がきっとすごく欲していること…安心して生きるとか、辛さ苦しさから少しずつ脱していくとか、そういう状態に向かうきっかけになる。そのきっかけを掴むのに、お金を出すという方法がいちばんわかりやすくて、役立つということなんだろう、というのが私の解釈です。出すものは、お金じゃなくても全然いいんだと思います。でも、「本当に大事だと思っているもの」「失いたくないと心底思っているもの」でないと手放したことにならないから、やっぱり現代社会ではお金ってことになりやすいんじゃないかな、と。

信仰者は、なにか大事なことに取り組む前や、なにかが無事に終わったときに、お賽銭だとか、お布施だとか、お供えだとか、名目はいろいろあると思いますが、そういう形でお金を出すことがあります。
取り組む前というのは、前に進む、という決断や、迷いを断ち切る覚悟。それを形として表すためにまとまった金額を出し、それによって「神様に見守っていただける」という安心感をもってやりきる力にする、という感じでしょうか。
取り組んだ後というのは、お礼という意味もあると思いますが、なにか成果がでた場合に驕りや自分の力の過信に結びつかないように、とか、取り組み前の自分とは袂を分かち前に進もう、とか、やっぱり決断、断ち切る、という感じかなと。
本来、お金の大小は問題ではないけれども、その覚悟の大きさとか、自分が握りしめている執着の強さとか、いずれにしても手放すべきものが大きいと自覚しているほど、金額は大きくなりがちかもしれません。

手放す、断ち切る、という意味で出すお金については、出した後の使い道がどうだとか、それによってその場で何が得られるんだとかは、あんまり視野に入ってこないんですよね。ある種どっちでもいいというか、大した問題じゃないというか。それが「出すことそのものに意味がある」という感覚っていうか。だから、一般的な、等価交換ツールとしてのお金の役割とは、ちょっと違うものになるんだと思います。
いやほんとは、違わないと思うんですけど。大きな括りで捉えれば、それによって覚悟を得ることができて、結果的に安心を得られることに繋がるわけだから。だから別に、宗教だからって特別な役割や意味合いがあるとは思わないんですけど、目先の等価交換が当たり前という一般的な感覚の中では、そういう抽象的な捉え方は(少なくとも私がいる社会では)ちょっと伝わりにくいのかもしれません。


私自身は、我ながらお金に関しては「出し綺麗」なところがあって、断ち切って出す、ということがけっこううまいかもしれません。気前がいいとか出し惜しみしないっていうのとは違うけれど(お買い物や旅行なんかは安くすませられれば嬉しいし)、出すことそのものに対するストレスが少ないことは、とても助かっている点です。
必要以上に稼ごうとか、節約しようとか、貯めようとか、あんまりそういう感じにならなくて、いただいているものを楽しくありがたく使わせてもらうということ。出せる、使えるありがたさ、ていうんですかね。
まぁ「退職後は2000万円くらいの貯金が必要」とかなんとか言われている時代にそれでいいのか、という話はあるかもしれませんが、そこは神様の存在を信じているものの強みですかね。心配する気持ちもあるけれど、どこかで「きっとなんとかなる」「必要なことが起こるだけ」と楽観視しているところはあるかもしれません。
そういう楽観的なスタンスを忘れずにいようという意味もあって、信仰に関わる団体活動は離れたけど、定期的に決めた額を出すことは、続けています。もちろん、言われているから、というのもありますが、自分のためにそうすることを選択しています。現状は。

というわけで、「個人(出す人)」サイドからのお金の話でした。
はて、うまく書けたのかどうか…。

どうしても「出すことそのものに意味がある」という感覚が、理解されにくい気がしています。そしてその理解のされにくさが、等価交換の感覚に照らされて「組織がお金を巻き上げている」「個人が騙され搾取されている」という解釈に繋がる理由かなぁ、なんて思ったり。もちろん、実際に巻き上げているとか搾取しているケースもあるのかもしれませんが。

次は、そこへんも含めて、「組織(受け取る人・団体)」サイドからのお金の話を書いてみようと思います。うーーー、まとまるかなーーーー。

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