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信仰について(3)互助会的機能を持つ団体として捉えてみると

宗教については専門的に勉強や研究をしたことがあるわけではなく、あくまでその渦中にいた経験をもとに考えてきたにすぎません。だから、どうしても想像の域を出られないことが引け目に感じられて、書くのが憚られてきたテーマですが、せっかくなので気が済むまでいろいろ書いてみたいと思います。今回は3回目になります。

信仰について(1)まずはじめに、私自身の信仰観を語ってみるなど
https://note.com/asako_emerald/n/n4d5d745b072c
信仰について(2)教理や行動規範で示される「形」について考えてきたこと
https://note.com/asako_emerald/n/n79270864006e

なにか一つ、特定の宗教で定義される神様を信じることになることを、「入信する」と言います。これ、世間一般ではなんとなく、「その宗教団体に入る」というような意味で使われているような気がするんですが、それにずっと違和感がありました。

私は、「入信」というのはずっと、自分が決めることだと思ってきました。「団体の中に私が入ること」ではなく、「自分の中にその教えが入ってくること」だと。

だから、例えば家にポスティングされたチラシなんかをみて、入信体験談みたいなコラムで「~~ということがあって、そのあと入信を認められました」のようなことが書いてあると、「いやいや、自分が信じるかどうかの話なのに、人から許可をもらわないといけないなんておかしいでしょ」と思っていました。というかそもそも、なぜ神様を信じるという個人的な行為が、団体で行われる必要があるのかが、まったくわからなかったのです。

いまも、基本的には同じ考えですが、すこしだけ認識を変えた部分があります。きっかけは、宗教団体の、互助会的な機能に気が付いたことでした。

前回のポストでも書いたことですが、宗教団体は、神様を信じることだけが目的ではなくて、そこに住む人たちの生活を守るという役割があったはずだと考えています。それを、神様からの啓示だけではなく、人と人の協力で実現していた部分もかなりあったのではないか?と思ったのです。神様に祈る場所としてだけではなく、互助会としての機能も同時に備えていたのではないだろうか、と。

古今東西「入信する」という経験をする人は、おそらく、それまでに何らかのしんどい状況を経験していることが多いでしょう。生活の苦しさや病気、うまくいかない人間関係。いろいろなしんどさから逃れたい気持ちで、信仰の門を叩きます。
現代の日本では「精神的なしんどさを抱えた人が宗教にハマる」みたいな文脈でよく話されていますが、おそらく世界的・歴史的に考えても、入信のきっかけとか、その宗教が広まっていく要因というのは「生活の苦しさ」が大きなところだっただろうと思うのです。現代の日本だってそうです。私が見聞きしてきた範囲ですが、急激に信者が増える団体というのは、経済的に困っている人に、具体的で即効性のある生活支援を行っていました。困っている人だけでなく、その人の家族までまるっと抱え、住む場所を提供しているという話を聞いてとても驚いたことを覚えています。
しんどさから逃れたくて、信仰の門を叩く。そのとき「信仰していれば助かるときがくる」とか「心を入れ替えて」みたいな精神的な話ばかりを説かれたら、どうでしょうか。それは正しいかもしれないけど、明日住む場所に困ってんですよってなると思うんですよね。
でも、その中で形成されている互助会的な機能に助けられて当面の生活について安心感を得られたら、そんな話も、聞こうと思えるんじゃないでしょうか。恩だって、感じているでしょうし。

そう考えれば、あのチラシに書いてあった「入信を認められました」という展開にも、納得がいきました。だって互助会なのだとしたら、共通の属性を持つ会員同士の相互扶助が目的なのだから、共通の属性を持っておく必要があります。誰だか得体のしれない人が関わるようになってしまって、既会員の人たちに不利益が生まれたり、不安を与えることは避けたいところです。
会員になるための条件を設定することである程度ふるいにかけ、それをクリアすることで「共通の属性」を作る、というのは、互助会であれば必要な仕組みだし、なんらおかしいことではありません。関係者が「信仰」と「相互扶助」をそれぞれ区別して団体運営に関わっているとは限りませんが…(区別していないケースのほうが多いような気はしています)。


そうか、信仰というのは、ごく主観的で個人的な話ではあるんだけれども、それによって関わることになる人たちの生活にも影響を及ぼす(という共通認識がある中に、身を置くことになる)という話でもあるのか。
そのことに思い至って、私は「入信」に対する認識を改めました。といっても基本的な考え方は「私の中にその教えが入ってくる」ということだし、自分が決めればいいことだ、と思っています。そして、それは同時に「団体の中に私が入る」という意味も伴うのだ、という認識も持つようになりました。私がそれを、望むと望まないとに関わらず。



少し話が脱線しますが、「信者を増やす」というのも、同じなんですよね。「教えを広める」というだけではなく、「会員数を増やして互助会的機能を安定的に運営する」というのも、きっとすごく大事な目的なんだと思うんですよ。
「洗脳して都合のいいコマをたくさんつくるためだ」みたいな捉え方する人いますけど、よく考えてもみてくださいよ、と言いたい。あなただって、大企業に勤めたほうが安心できるって発想、理解できるんじゃないの?会員が少ない集まりよりも、多いほうが信頼できる気がする感じ、わかるでしょ?サークル活動するとき、部員増やそうってがんばったりしましたよね?
それなのにどうして、こと宗教に関しては「アヤシイ」と決めつけるんでしょう?

もちろん「アヤシイ」目的の人もいないわけではないのでしょう。信者って言われている人の中にはもしかしたら、世間から見たらはみ出し者と言われるような人もいるかもしれません。不器用で、あまりにも人間臭くて、関係を良好に保てない人も、いるかもしれません。ドロドロした争いを起こしてしまったり、犯罪と言われる行為に手を出してしまう人もいるかもしれません。
でもそれって、宗教に限った話でしたっけ。と思うし、誰だっていつ「アヤシイ」人だと言われるようになるか、わからない世の中です。あなただって、そのうちの一人です。私だってそうです。
それに、洗脳だとか犯罪だとか、そんなの本当にごくごく一部の話なんですよ。一部の極端な事例がクローズアップされすぎだし、それに感化されすぎです。そういうコメントに触れると、とても悔しくなります。

信仰をもっている人の大多数は、なんとか助かりたいとか、相手を助けたいとか、穏やかに暮らしていきたいという純粋な気持ちから、神様を信じ、人に関わり、関わる団体の健全な運営を支え、奔走している人たちです。少なくとも私が出会ってきた人たちは、そうでした。実際に自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じてきたことだから、これは自信を持って言えます。

私は、教理や行動規範で示される「形」をたどっていくことが難しいと感じて、その団体での活動からは離れました。でも、そこに関わる中で出会ってきた人たちや、教えてもらったいろいろな話は、知ることができてよかったと思うものが多いです。尊敬する人も、何人もいます。

宗教だからといって、頭から否定しないでほしいです。だって、そこに関わる人たちが安心して生活できるということも、宗教団体の大事な役割のうちの一つだと思うから。

「信仰について」まだまだ続きます。

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