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信仰について(5)個人と組織のお金の話。組織のことは、難しいけれど。

宗教については専門的に勉強や研究をしたことがあるわけではなく、あくまでその渦中にいた経験をもとに考えてきたにすぎません。だから、どうしても想像の域を出られないことが引け目に感じられて、書くのが憚られてきたテーマですが、せっかくなので気が済むまでいろいろ書いてみたいと思います。今回は5回目になります。

信仰について(1)まずはじめに、私自身の信仰観を語ってみるなど
https://note.com/asako_emerald/n/n4d5d745b072c
信仰について(2)教理や行動規範で示される「形」について考えてきたこと
https://note.com/asako_emerald/n/n79270864006e
信仰について(3)互助会的機能を持つ団体として捉えてみると
https://note.com/asako_emerald/n/n7c998f358de3
信仰について(4)個人と組織のお金の話。まずは個人のことから。
https://note.com/asako_emerald/n/nd02654feecc8

信仰の中で感じてきたお金の話について。前回、個人の側面から書いてみて以降、ずいぶん次を書くのに気が重くなってしまい、間が空いてしまいました。そのくらい自分にとっては、あまり考えたくない…というか、無責任なことを言いたくない気持ちとの葛藤を感じるテーマなんだなぁということを、改めて感じています。

宗教とお金。あまり肯定的なニュアンスで語られることの少ないテーマだなぁというのが自分の印象で、その多くが「宗教団体が、信者から、お金をだまし取る、巻き上げる」みたいなトーンが漂っているかなぁと。

ただ、私自身は「だまし取った」「巻き上げた」ケースを、具体的に見たことがないんです。それこそ生まれたときから神様ごとが家にありましたから、30年とか40年とかそんなレベルでいろいろな活動に関わり、あるいは話を聞いてきましたけど、リアルで遭遇したことは、ありません(記憶にある範囲では)。

それなのにどうして否定的なトーンが漂うんだろうか?と考えてみたとき、一つには、運用する人たちの多くで、日常生活と信仰生活が一体化しているということが挙げられるように思います。
信仰者は、さまざまな理由で、お賽銭・お布施・お供えなどとしてお金を出します。基本的にはそれらは「出すことそのものに意味がある」ものとして捉えられている、というのが前回書いたことです。個人としては、それである程度完結していいようにも思いますが、受け取る「組織」としては、そうはいかない。受け取ったお金は主に以下の3つの用途に使われていると考えられます(厳密に調べたわけではないですが)。

 ・宗教法人全体の、運営資金
 ・各互助会的コミュニティにおける、信仰に関する活動資金
 ・その宗教内の「専従者」の給料などの意味合いを含む、日常の生活資金

で、日常生活と信仰生活が一体化している場合、この区別がすごく難しいと思うんですよね。
いわゆる「宗教法人」として生活をしている人が友人知人にたくさんいまして、以前言われて、とても印象深かったのが「人様からいただいたお金で生活しているっていう感覚は、なかなか経験したことのある人でないと、わかりにくいものだと思う」という言葉でした。たしかに、私も理屈ではわかっているつもりですが、経験・体感したことはない。本当には理解できていないと思います。宗教に関わったことのない人たちであればなおさら、仕事などで「公私は区別するように」というのが常識です。公私の区別が難しい、ということを肌感覚として理解しにくいのではないかと。
それに、例えば生活保護を受けている人たちに対してだって「娯楽に興じてはいけない」なんてコメントがたくさん出てくる社会です。パチンコに行くべきではない、みたいな。もう一体何をいってるの?って感じなんですけど、そのくらい「お金は、仕事をした結果稼ぐことが正しい」「稼ぎもせずに人からもらったお金を好きに使ってはいけない」っていう考えの人が多いのではないかと思うのです。
ただでさえ宗教法人は、「税金が免除されている」みたいなパワーワードでもって語られがちですからね。

長く関わってきた中では、たしかに「それはちょっとおかしくないか」と言いたくなる使い方を聞いたことはあります。でも、そこにあったのは「悪意」ではなかったように思うんですよね。どちらかというと、受け取る「組織」側が用途の区別ができていない(または区別する必要性を理解していない)っていう印象でした。悪意があるわけじゃなくて、ただ「知らない」っていう。
もちろん「知らない」からOK、ていいたいわけではないんです。「知らない」だけで罪でしょ、という考え方だってあると思います。ここではそれが良いとか悪いとかいいたいわけじゃなくて、神様ごとと生活ごとが、区別できていないっぽい(それこそ、肌感覚として)なっていう感想を持った、ということです。
やっぱりね、肌感覚で理解できない相手に、理解させるって難しいですよね。ちょっとナナメにとらえて言えば、ある程度のことは神様ごととして押し切れるところもあったりしますから。それが世間一般からみて「世間知らず」って揶揄されたり、常識的な考え方に照らして「公費の私的利用」として毛嫌いされる所以かなぁと思ったりします。

きっと、組織の中には、悪意ある運用者もゼロではないだろうと思うんですね。私は出会ったことはないけれど、そういう「被害」に遭った人もいると聞きますし、最初から私欲のために集めて、運用しているケースも、きっとあるのだろうと思います。

誤解を恐れずに言えば、私は、それもムリもないよなぁ、って思うんです。信仰者といったって、宗教法人と言ったって、言うても人間ですし。
だって、考えてもみてほしいんですよ。お金、入ってくるんですよ。ある意味では、仕組みさえできてしまえばサブスクみたいな感覚で、定期的にまとまった額、入ってくるんです。しかも出している信仰者は純粋に神様に預けるつもりだったり、自分のこれまでを断ち切るとか、さまざまな不安から逃れたい一心だったりして、「出すことに意味がある」くらいに思っている。そうなると、少しくらい自分のために使いたくなる人がいても、不思議じゃないよなぁ、と。

それがいいって思ってるわけじゃないんです。でも、人間の中にそんな仕組みがあったら、全然起こりうることなんじゃないかなって。私だって、そういう場所に最初からいたら、自分のために使いたくなってるような気がします。

だから私は、「組織」の側で公正に、純粋に、このお金を人の役に立てよう、神様の御用に使わせてもらおうと考えて動いてくれている人たちには、尊敬しかないです。すごいと思う。

もちろん、組織としての改善の余地は、どんな宗教法人にだってあると思います。自浄作用みたいなものがうまく機能していないところもあるでしょうし、組織内のシステムをもっと整えなければならないところも少なからず、あるのかもしれません。
それらを見直して改善したと考えても、システムは人が動かします。悪意ある運用者は、きっとゼロにはならない。悪意はないにしても「知らない」運用者も、少なからずいるだろうと思います。

大きい金額が動くことが多いだけに、批判の的になる現象も、やむを得ないことかもしれません。でも、明るみに出た悪意ある運用の陰には必ず、悪意でもって運用されないように、正しく運用されるようにと葛藤し、奔走している人たちがいます。
悪意ある、あるいは「知らない」運用者の数をはるかにしのぐ数の、善意ある、公正に運用しようとしている人たちがいるということを、忘れないでいたいと思うのです。そういう人たちは、表には出てきません。結果的には、止められないものもあるかもしれません。だけど確実に、そういう人たちが、いるんです。

ただでさえ日本は、「宗教」に対するアレルギーみたいなものがあるし、「お金」に対して世間の目は厳しいところがある。その渦中に身を置いて、それでも人のため、神様のために、日夜奔走している人たちがいるということ。
それが当然のことだといって、宗教法人を批判する人はいるかもしれません。いや、当然じゃないですよ。もちろん渦中にいる人たちは、当然ことをやってるだけだっていうと思いますよ。でも、批判しているあなたたちは、本当にそれが当然だと思うんですか?同じ立場になって、本当に絶対やらないって、言いきれますか?悪意のあるなしに関わらず「公費の私的利用」とは完全に生涯一切無縁だって、断言できますか?


お金のことは、ともすると、私欲と結びつけて考えられがちです。
でも、私欲とは離れて(あるいは離れようと努力しながら)公益のために、利他的な理由のために、日夜奔走している人たちがいるということ。そのことに気がつき、目を向け、その価値を理解してくれる人が、もっと増えたらいいなぁと思います。

それが、私が信仰におけるお金のこと、とりわけ「組織」のお金のことに関して考えるときに、いつも願っていることです。

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