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気が狂ったようにヒットしている『愛がなんだ』、カットされたポスターのシーンと、なぜ大ヒットしているのか、ヒントは「金麦」にあった。

アンダー35の女性8割の客席でシニアの男性客はいなかった。満席のシネクイントで、なんでこの映画が気が狂ったようにヒットしているのだろうかと思った。

『愛がなんだ』既に興収1億3千超えだという。映画を観るとポスターのシーンはない。成田凌にオンブしてもらうなんてなんと幸せ!撮影したけどカットしたと監督が語っている。二人がパーティーで出会った帰りヒールの足が折れてオンブしたシーンだという。

観客に頭の中には、幸せな二人の姿が刷り込まれている。どうみても両想いのカップルだ。しかし映画は違う、相当こじらせた山田さんの片思いというかとにかく恋人ではない関係の話だ。痛い。ポスターの写真に恋して観に来た観客は戸惑う。始めから痛すぎるというのが確定していればパスしたかもしれない。

その写真の横のコピー「全部が好き。でもなんでだろう、私は彼の恋人じゃない」写真とのミスマッチさを演出するコピー。ハッピーな恋愛映画なんて、けっと思う人にはひっかかるコピーだ。しかも今泉監督なので、そんな単純な幸せではないことはわかっている。

恋愛映画をみにきたつもりが大きく肩透かしをくらう。予告を見ても結局最後はちゃんと恋愛成就するんじゃないとも取れなくはない。世の中に自分が望むような幸せな恋愛をしている人と、そうでない人の割合は多分そうでない人の方が多いだろう。でもそうでない人も幸せな恋愛を望んでいる。

その方程式からいくと完璧な宣伝戦略ではないか。あんなに幸せそうなオンブシーンで恋愛願望のある観客の心をわしづかみにし、コピーではちょっと斜に構えた人もつかみ、映画の中の、恋愛にもがき痛い山田テルコさん、その姿は観客自身とダブってくる。山田さんや守君や、葉子、中原、誰一人にも共感を100%できないけれど。

でも、彼女たちの中に観客の一部分がある。「ほんとに寂しい時に誰に電話するかな?」と観客は自分に問う。この映画は、癒しにも、ハッピーにもならないけど、こころをざわざささせる。世の中には自己実現の後押しをする自己啓発やセラピーがあふれている。すべて自分が一歩踏み出したり、努力すれば達成すると背中を押される。しかし、「恋愛」だけは、自身の努力だけではどうしようもならない。自分が相手を好きになった理由が明確でないように、相手も自分を好きになる理由が明確に分かりようがないからだ。

それが恋愛といえる。ということで『愛がなんだ』は、すべてが思うようにならない「恋愛」、しかも今泉監督がフォーカスするのは、狂おしいほどの愛ではなく、ちょっと変わった、でもだれにでもある感情にフォーカスをあてる。そこがうまい。

キャストの誰か一人に共感という事ではなくこの「映画の世界」に共感する、恋愛したい、恋愛こじらせ中、(今は)至極まっとうで痛い彼女らを軽くディスる余裕もできた人たちが、劇場に押し寄せヒットしているのではないか。で、そういう人はマスだという事だろう。

ちなみにポスター写真はティーザーで使用し、評判が良かったので本チラシも下に枠で囲ってキャストを追加しそのままの写真にしたらしい。山田さんと守君が出会った夜のシーン、映画の中の山田さんが、なぜ、守君にあそこまで執着するのか、監督はずるい。本編からオンブのシーンをカットしたのは。観客にはわからないではないか。

『愛がなんだ』、一連のツイートをして、暫くテルちゃんのことを考えていた。そしたら泣けてきた。方程式の解がないのが恋愛だとここまでツイートしてきたが、映画ではカットされたポスターのあのシーン。守にオンブされた初対面の夜こと。彼女はその夜のことがずっと忘れられなくてあんな行動を取った事が理解できた。

彼女に共感できた。映画の最後、山田さんのとった行動、自分で未来を築くという選択にギャグを超えた感動をもたらす。原作が気になる。最後も本気だよねテルちゃん。

これは 先のツイートを反転させるが『愛がなんだ』は狂おしいほどの愛の映画ではないのか。

と、ここまで考えて、狂ったようにヒットしているのはなぜかということだが、「金麦」にそのヒントはあるのではなかろうか。映画の中の飲みのシーンは居酒屋で、二人が出会う場所も中目黒あたりのカフェバー、なんの背伸びした場所でなく、コンビニ買ってきた鍋焼きうどん、そしてサントリーの「金麦」。酒税が安いので価格も安く、ビールではなく「発泡酒」と言われている飲み物だ。「ザ・プレミアム・モルツ」ではなく、まさに別にビールでなくても似たような味ならいいやという今時の感覚と若者の懐具合をうまくトレースした結果が「金麦」だ。映画『愛がなんだ』の象徴が「金麦」なのだ。

そして、一番のおしゃれな場所が、青山でもなく、西麻布でもなく、中目という、内向きさというか、ちょうどいい現実感。

かつて、人々は、映画に、恋愛映画だろうがなんだろうが現実の地続きではなく、夢なり、現実逃避なりを求めたものだ。キューバを舞台にした「ラム酒」を飲む恋愛、北欧に行ってカフェごっことか、パリのエッフェル塔をみてサンジェルマンで散歩したりとか、しかし時代は変わった。

今と違うどこかに行って、今と違う何かをして、「自分探し」をしたい若者たちが、自分探しさえも放棄して、今のありのままの自分に「いいね」を望むようになったのではないか。さらにテルちゃんがマモくんになりたいという究極の愛の感情、相手からの「いいね」という承認さえ必要のない関係、他との関係を必要としない関係、そんな「愛の引きこもり」とでもいう痛いテルちゃん。そんな映画の中の彼女たちに共感するする若者が特に女子が映画館に押し寄せているのだろう。

なぜ『愛がなんだ』が大ヒットしているのか。観た人は、登場人物の誰にも完全には共感できないが、誰かの一部には共感できる「鏡のような映画」だからではないだろうか。それを後押しするのは、若者の内向き志向、そして貧困とまでではいかないが豊かでない現実。そういう生活の中での一大イベントは恋愛。リアルな設定の映画の中で映される恋愛事情が鏡のように観客自身を映し出してくれる。鏡の角度が多面で、それぞれ異なる恋愛を経験した女性観客の心に刺さっていく。それが、大ヒットにつながった要因ではないだろうか。

2019年6月10日加筆。香港の100万人規模のデモを見て思い出したこと。カンヌ映画祭中、業界の人と『愛がなんだ』の日本でのスマッシュヒットを話題にしていると香港とフランスの人が「あんな自立してない女性の話は受けません」と言っていた。香港もそうだが、確かにフランスもデモの国だった。

この映画が受けるということは果たして社会にとっていいことなのだろうか、リトマス試験紙としては面白い映画ではあるが。


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