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【エッセイ】自問自答

 自分がある程度のことは我慢できて、けっこうがんばりが利くことを知っている。だから、いつも自分のことは後まわしだ。
 後まわしにしても文句を言わないし、目を離していてもほとんどのことは(表面上は)滞りなく進む。
 余裕ができたら自分に目を向けようと思うのだが、自分に目を向ける余裕があるならば他にすべきことがあると思ってしまう。
 そうしてまた、自分のことは後まわしだ。

 ふと思う。余裕っていつできるのだろう。私はいつ、振りかえって立ちすくんでいる自分に気付くのだろう。
 あとで。時間があるときに。そう答える私は、振り返らずとも自分が疲れて立ちすくみ、困り果てながら涼しい顔を装っているのを知っている。
 そうして後まわしにした私もまた、振り返る余裕がないほどにものごとに追いたてられている。

 自分の身は自分で守るべきだと信じている。そのためには自分のことは自分で手当てしなければならない。自分でやらなければ、手当てしてくれるひとなどいない。
 それなのに、呪いみたいなものがからみついて、自分のことを後まわしにさせる。
 世界に対して優位でありたいなどとは、つゆほども思わない。ただ、このまま自分がすべてにおいて後まわしなのはとても寂しい。
 そう思うのなら、やっぱり自分を後まわしにしすぎてはいけない。自分が寂しがるのは、誰かが寂しがるのと同じだ。
 他人であればそのようなひとを放っておくことができないくせに、自分であれば構わなくて良いとは、どのような理論だろう。

 自分のことを見て見ぬふりしないこと。ときどきは疲れたとか、構ってほしいとか、自分に言ってみること。
 最上位でなくていい。最下位を定位置にしない。自分の優先順位がわかるのは、自分だけだ。
 誰に対してもフラットに接したいなら、自分ともフラットに接しなければ嘘だ。
 そうしてはじめて、私は私と対等になる。
 

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