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いのちの電話の相談員はなぜボランティアなのか?ボランティアに頼る運営姿勢から垣間見る心理ケアへの偏見と危機感の欠如について問題提議してみた

自殺ホットラインの代名詞とも言える、いのちの電話。

アメリカでも、Suicide hotlineやCrisis hotlineなどと呼ばれ、さまざまな自治体にホットラインが設置されています。

日本におけるメンタルヘルスの最後の砦とも言えるホットラインの一つ『いのちの電話』、わたしはこれが無償のボランティアの相談員によって運営されていることを最近まで知りませんでした。

そして、「相談員のなり手が少ない」ということから相談員になる条件等いろいろ調べているうちに、自治体の中には、『無償』であることにこだわる場所もあるとか。特に、島根いのちの電話では、「なぜボランティアなのか」その理由が詳細に書かれている記事がありました。正直、わたしは、この記事に大きな衝撃を受けてしまいました。

Business Journalの記事

島根いのちの電話

そこで、この記事では、ホットラインなどとても緊急を要する相談サービスにおいて、なぜ、ボランティア・無償ベースの運営形態が問題なのか。島根いのちの電話で語られる「なぜボランティアなのか」を例に、その中で語られる『心理ケア従事者』に持たれている偏ったイメージを浮き彫りにしながら、アメリカのホットライン事情と比較、そして、日本社会のメンタルヘルスに欠けていると感じる部分を指摘してみたいと思います。

そもそもホットラインとは何か?

事件にあったり、身の危険が迫った時、真っ先に助けを求める先は警察の110番でしょう。それと同じように、自分の心が押し潰されそうになるような切迫した状況において、「誰かと今すぐ、話したい」と思ったときに、すぐ誰かに繋がれることを可能にしてくれるサービスがホットラインです。

ホットラインの一番有名なものは、自殺ホットライン。今、命を絶とうか迷っている、もうあと一歩で命を絶つ選択をしてしまうかもしれない、といった緊急下で誰かに話せるサービスがあることが、今まで多くの人を救ってきました。

ホットラインには、自殺ホットラインの他に、DV被害に関するホットラインや、子供の虐待のホットラインなどが存在します。今、電話をした先に相談員と直接話すことが出来、そしてその相談員を通じて必要なサービスに繋げてもらうことも出来ます。これは、メンタルヘルスの最後の要、社会福祉支援に於いて絶対になくてはならない、とても大切な役割を担っています。

この記事では『いのちの電話』をピックアップしていますが、これ以外にもさまざまな団体が設置しているホットラインが存在しています。

日本国内のホットラインを一覧にしているサイト

いのちの電話とは?

日本いのちの電話連盟ホームページ(https://www.inochinodenwa.org)によると、1953年にイギリスで発足した自殺予防の電話相談サービスをモデルに、日本では1971年10月に、ドイツ人宣教師ルツ・ヘットカンプ女史を中心に東京で開始されたサービスだそうです。

当初は5ヶ所のみのセンターでしたが、その後連盟結成され、全国に設置が広がっていったようです。

主に、特別な研修やトレーニングを経た相談員たちで形成され、その多くはトレーニング代を自己負担したうえでボランティアとして活動されている人もいるそうです。

島根いのちの電話の「なぜボランティアなのか」解説記事は『心理ケアに関わる者』への偏見的意見とボランティアにこだわる言い訳が満載

わたしは、この相談サービスにおいて、相談員が自己負担した上で相談員となり、その上でボランティアとして活動を行っている、ということに対してとても大きな疑問を感じています。そして、現在いのちの電話が抱えている相談員の人員不足は、この組織形態を維持しようとする限り今後益々難しくなっていくのではないかと危惧しています。

なぜ、相談員を有償で雇って確実に人員配置することは出来ないのか?なぜ、「ボランティア」という人員確保が不確かな雇用形態にこだわる必要があるのか?

島根いのちの電話・前理事長である、精神科医角南譲氏の「なぜボランティアなのか」の解説を読んで、メンタルヘルスケア(と、それに従事する心理職専門家)に対して偏見的な意見があること、そして、ボランティアにこだわることへの理不尽な記述を見つけました。そのため、医師の記事の内容を抜粋しながら問題の意見に対して正直に思うことを述べていきたいと思います。

問題の抜粋①

“人々の心に巣くう「虚しさ」に、温かさを与えようという、市民のための市民活動として、専門家ではなく、似たような悩みや苦しみを味わったことのあるボランティアが、悩みを訴えている人と同じ目線に立って、共に苦しむ。”

島根いのちの電話・前理事長・精神科医角南譲氏の「なぜボランティアなのか」

まず、「専門家ではなく~、似たような悩みや苦しみを味わったことのあるボランティアが、」という点に対して、当事者性を優先し、専門性を二の次にしている印象を感じました。専門性を持ち当事者に理解のある方は、心理職専門家には山ほどいます。なぜ、専門性を携える心理職者ではダメなのか、ボランティアにこだわるその正当性がいまいちわかりません。

また、似たような悩みや苦しみを味わったことのある人だからこそ、相談員にはならない方が良い方もいらっしゃいます。これは本当に、個人個人、自分の抱えてきた悩みとどう向き合ってきたかに委ねられるため、一概に、「似たような悩みや苦しみを味わったことのあるボランティア」だから気持ちがわかる、など安易な発想に持っていくことはとても危険なことだと感じました。

これはまるで、骨折をして応急処置が必要な人に対して、過去の骨折を経験した医療経験を持たない人が、処置にあたっているようなもの。うまく対処できている部分もあるかもしれませんが、自分の経験から感じた先入観や固定概念に囚われて判断に間違っている部分もあるかもしれない。それくらい、漠然とした考え方が根本にあるため、一定基準の適切なケアを補償することが難しくなってしまいます。

一方で、骨折して治療を経て、実際に医療の知識を経て医師になった上で、自分が経験したのと同じような骨折の治療に当たる医師などと同じで、当事者経験を経て心理学を学び、心理ケアの専門知識を経たのち自殺介入の仕事に従事される専門家はいらっしゃいます。

このニュアンスの違いがきちんと語られず、当事者だからに終始するこのコメントの偏りをはっきり指摘したいと思います。

問題の抜粋②

“いのちの電話の相談は通常の心理カウンセリングや精神療法といった援助ではなく、個人の善意に基づいた素朴で友愛的な対応を志向するものである。したがって、電話相談員は心理臨床に関する専門的知識やスキルを必須としない一般の市民ボランティアである。”

島根いのちの電話・前理事長・精神科医角南譲氏の「なぜボランティアなのか」

この説明だと心理専門職者は、限定的な心理ケアしかしないように受け取れます。しかし、実際には、話し相手に応じて、傾聴や素朴で友愛的な対応をとる方もいますし、危機的状況下の介入も理解しているのが一般的です。そして、それらの対応も含めて、心理カウンセリングや精神療法と理解しています。

そもそも、心理職者も一人の人間であり、市民です。役割に応じて、心理療法を行う時もあれば、危機介入を行う場合も、話し相手に徹する、といった使い分けは普通に臨機応変にします。したがって、専門的知識やスキルを必須としない一般の市民ボランティアに頼る意味がここでもはっきり分かりません。

問題の抜粋③

“「自殺の危機が高く切迫すればするほど、効果的に処置するための専門的知識を必要としない」というリットマン(Litman.R.E 1965)の言葉に象徴されるように、危機的状況にある人にとっては、病理分析的治療的介入よりも、素朴ながらも心温かく受けとめられ、優越感ではなく友達のように語りかけられる体験がはからずも優れたカウンセリング的な効果をもたらしていることも少なくない。”

島根いのちの電話・前理事長・精神科医角南譲氏の「なぜボランティアなのか」

「自殺の危機が切迫するほど、効果的に処置するための専門的知識を必要としない」のこの専門的知識が何を指しているのかにもよりますが、後述にある、「病理分析的治療的介入や優越感ではなく友達のように語り掛けられる体験」とあることから、医師のように接するのではなく、と言いたいのかなと解釈しました。

ホットラインで働く心理職者は、皆、その時にどのような対応が必要なのか、その時その時でするべきことを専門知識を兼ね備えた上で判断材料にして適切に対応しています。また、優位性や上下関係を持って相談者と接することはなく、その点は、医師と大きな違いがあります。そのため、ここにおいても、あえて一般市民のボランティアを強調する意味がわかりません。

問題の抜粋④

“どのボランディアにも、いのちの電話に関わろうとするからには、絶えず2つの事が問われているからである。それは、いのちの電話の基本理念に深く同意していることと、相談の質の高さに努めるという大きな課題である。…「聴く」ことがどれほどエネルギーのいる、しかもアクティブで実りのある働きかを、私達が心底納得するのは容易なことではない。…相談活動を通じて、どんなふうに自分が変えられていくだろうかという「期待と楽しみ」を感じとれるようでなければ、相談員としては長続きしない。…電話担当として月2回受け持つ負担に耐えられるか。そのうち1回は深夜に及ぶ。守秘義務、匿名はもとより、自死企図より、自分でも大変と思えるような問題を抱える人と相対していくことになるが、その気力と体力の覚悟はあるか。…共感能力があるか。自分とは違う生き方や考え方をしている人たちの話を、共感しながら聴く事ができるか。…自分のありのままの姿を認め、受け入れられるか。…仲間と協力してやっていくことができるか。…
政治や宗教に公平でいられるか。寛容でいられるか。” 

島根いのちの電話・前理事長・精神科医角南譲氏の「なぜボランティアなのか」

基本信念に同意することをボランティアに求めるのはもちろんわかりますが、上記に述べられる一連の相談員としての理想像を読んで、これを一般市民の、しかもボランティアに求めるには、あまりにも理想が高いのではないか?と感じました。わたしには、この一連の記述が、無償でやるには負担が大きすぎる、個人の善意におんぶにだっこのやりがい搾取に思えてしまいました。

問題の抜粋⑤

“精神的強さがあることの必要性。心の問題を抱えていたり、精神科の治療や心理治療を受けている人が相談員になることはできない事を知らねばならない。”

島根いのちの電話・前理事長・精神科医角南譲氏の「なぜボランティアなのか」

心に大きな問題を抱えている人が相談員に向かないことは理解できます。しかしながら、ここに書かれてある『心理治療を受けている人』には相談員になることは出来ないという記述に対して、わたしは大きな憤りを感じました。

なぜなら、自分のセルフケア、心のメンテナンス代わりに心理療法に通う人はとても多く、それが相談員になることを阻むくらいの精神疾患を持つ理由にはならないからです。アメリカの場合、心理職者であるからこそ、心理治療を継続することが推奨されているくらいです。

ホットラインという、心の悩みを抱えて苦しんでいる人たちを相手にする場所で、「精神的強さ」を強調したり、「治療を受けている人は~」と精神的症状を良し悪しで区別するように話すことに無神経さを感じますし、このような考え方こそが、相談者と相談員の優位感や上下関係を作り出す原因を内在する価値観なのではないかと思ってしまいました。

アメリカのホットライン事情

ホットライン業務について

これは日本でも同じだと思うのですが、ホットラインの相談員はとても過酷な仕事です。

いくら最初は熱意があったとしても、相談を聞いているうちに、心が疲れ切ってしまうことはあります。島根の記事にも書かれていますが、人の相談を聞くのはとても労力のいる作業です。まして、24時間体制の場合、夜間のシフトで睡眠時間が狂って調子が崩れやすくなっていることも忘れてはいけません。

それに、一人一人、ホットライン以外にも生活があるのですから、プライベートの状況の変化によっては、ホットラインの仕事が無理なくこなせる日もあれば、大きな負担になる日もあります。

そのため、ホットラインや危機介入業務は、離職率がとにかく高い職種としてとても有名です。

アメリカのホットラインの人員確保の仕方

アメリカの場合、心理支援の専門職者になるには、大学院を卒業後一定の研修期間をこなさないと資格試験の受験資格が与えられません。そのため、その間をホットラインを設置している組織・クリニックで働く、という方が結構いらっしゃいます。もちろんボランティアの人も場合によってはいますが、多くは、心理職受験資格を得るための研修要件を満たすための対価として、もしくは、業務に見合う給与付きの雇用スタッフとして働いている方が一般的です。

それは、児童相談所にしてもそうですし(児童相談所は行政から雇われたソーシャルワーカーが中心です)、DVホットラインもDV関連施設のスタッフや心理職研修生たちが中心となっている場合が多いでしょう。

もちろん、各サービス機関の相談員に求める研修やトレーニングは、相談員として実際に相談業務に携わる前に、心理のバックグラウンドが有る者でも、皆一様に受けることになります。

離職率が高いところほど、人員を繋ぎ止めるために研修生に給与を高めに出す傾向もあります。

ボランティアの責任能力は、有償雇用スタッフに比べて大きく違う

また、ボランティアへの扱いも大きく違います。ボランティアの場合、あくまでもボランティアは彼らの都合で、彼らの出来る時間と労力を彼らの出来る範囲で提供する人たち。

なので、シフトに突然来られなくなることも、休暇が必要な時も、雇う側は、なるべく彼らに融通する必要があります。雇用ベースで働いているスタッフと無償のボランティアでは、業務の内容も責任の範囲も大きく違います。ボランティアは、いつでも辞められる、必要以上の業務を受け入れる必要はないバーンアウトを極力起こさない状態で働けるように配慮されています。それがあって初めてボランティア業を維持できるのです。

そのため、アメリカのホットラインでは、最低限有償で働く雇用スタッフを何名かシフト制で配置した上で、ボランティアに人員補強してもらう、といった形で機能している場所が多い印象です。

アメリカと日本のホットラインの運営に関して認識されている前提の違い

アメリカの場合、メンタルヘルスケアに於けるホットラインの重要性は深く認識されており、何が何でも24時間体制でサービスを維持できるように人員確保に取り組んでいます。

そして、働く相談員たちのメンタルヘルスにどのような負荷が掛かるのか、離職率はどうして起きているのか、スタッフを繋ぎ止めるための作戦や、スタッフのバーンアウトに対処するための方法が各サービス機関でさまざま工夫されています。

日本の場合、ホットラインの重要性を一見認識しているようでいるものの、それを維持するための工夫を相談員個人のやりがい精神性に丸投げしている、そんな無責任なマネジメント体制を垣間見ます。

相談員になるために、希望者が自ら研修やトレーニング費用を負担することはもちろん、善意や熱意を理由に、本来であれば有償にしてもおかしくないほどの内容を個人のやりがいに置き換える「なぜボランティアなのか」の解説など、それらを読むだけでも、とても悪質で怠慢な運営側の事情が見え隠れするように思います。むしろ当事者性を意識してボランティアを集う意図に、「同じ経験をした者だからこそ今、困っている人を救いたい」という熱意を逆手にとってる雰囲気さえ感じます。正直、このような認識の組織で働くとなると、バーンアウトしない方が難しいのではないかと推測しますし、現在相談員をされている方達が本当に必要なサポートを得られた上で相談業に取り組まれているのか、とても心配です。

日本では、心理職者の仕事のポジションが少なかったり、心理職の仕事の待遇がとても悪い、ということを聞きました。一方で、このようなメンタルヘルスの重要な役割を担うホットラインや危機介入のサポート機関がボランティア主体で個人の善意に任せて運営されている。これを資金の出し渋り以外の何物と呼べばいいのか。

適切な人員を適切な場所に配置しないその根拠は何なのか?わたしには、その理由が見えてこない。とにかく疑問に思えてなりません。

おわりに

この記事で例に出した島根いのちの電話の精神科医の記事は、ボランティアのやりがいを鼓舞するために書かれたような内容ですが、わたしには、この精神科医のような考え方、この認識が、世間一般のメンタルヘルスへの理解をさらに不透明化・スティグマ化し、さらには、心理ケアを過小評価しているように思えてなりません。

日本国内に相談員になれる人員は十分存在している、にも関わらず、確実に人員を確保するために必要不可欠な雇用のための資金を出し渋りボランティアに頼ろうとする組織体制があること。むしろ、ボランティアで相談業は全て賄えると思っているのか。先進国でもトップを争うぐらい自殺が多い日本において、24時間体制でホットラインを運営していくことが急務・優先考慮されていない様子に、衝撃を受けますし、何よりもこの体制の不利益を被るのは、サービスを本当に必要としている利用者であることを忘れてはいけません。

いのちの電話を始め、ホットラインは精神医療の要の分野です。これらの組織の相談員を確実に、常時確保するための雇用形態の見直しのための、問題提議を引き続き行なっていきたいです。

皆さんは、どのようなことを感じましたか?おかしいことに対して、一緒に声を上げていきませんか?

ホットライン:まもろうよこころ

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