見出し画像

ドクメンタ15 失くした現在のリアル


カッセルという街へ行ってきました。
ドクメンタを見るために。

前回までのお話。


今では、世界で最も重要な現代アートの展覧会、と呼ばれるまでになったドクメンタの歴史は1955年、まだ戦後の復興もままならないカッセルの街から始まります。

街の損壊が激しかったカッセルは、戦後10年を経てもなお仮設住宅が立ち並び、状況としてはいまだ復興の最中にありました。そんな街の再生を後押しするために企画されたのが「ドイツ庭園博覧会」。

これは戦前にドイツ各都市を巡回し開催されていた博覧会を、さらに国際的な規模にまで拡大したもので、博覧会と謳いつつ、カッセルの街の新しい都市計画を広く公募し、多額の賞金を用意したことで世間の耳目を集めます。

この庭園博覧会に合わせて、瓦礫の台地には花が植えられ、道路や線路や水道などの都市のインフラが整備され、街はふたたび少しずつ活気を取り戻していくことになります。

+

庭園博覧会へ向けた計画を準備中のカッセル市長と一人の男が、カッセル市内の瓦礫の残る緑地を散歩しています。

市長は街の復興計画に熱意をもって取り組んでいました。インフラの整備、居住区の再建、経済の回復、産業の再興。世界に向けた国際庭園博覧会開催への意気込みを身振り手振りで男に語って聞かせます。

男は市長の話に頷きながら言いました。

「いいですね、でもたったひとつだけ足りないものがありますよ。
今の私たちの態度を、芸術で示さなくてはなりません。」

市長は驚いて男に返します。

「いや、でもどこで?
美術館だった建物はからっぽで、窓ガラスすらはまっていないんだぞ」

男は毅然と返します。

「はめたらいいじゃないですか」

+


実際に、1955年のドクメンタは、当時、戦後の廃墟となっていた元美術館で開かれました。建物の床はむき出し、壁は剥がれた状態で、装飾も設備もまったくない、がらんどうのような状態です。

誰もが、こんな廃墟で国際的な美術展を開くだなんて、到底無理だと考えました。が、それでもその男はやりました。

名前はアーノルド・ボーデ。

かつて退廃芸術家と呼ばれていた男です。

+


ボーデの頭の中には、一枚の忘れられない絵がありました。

それは1937年、自分が戦争へ徴兵される前に訪れたパリ万国博覧会で一目見た、一枚のモノクロームの大きな絵。

タイトルは「ゲルニカ」、作者はパブロ・ピカソです。


Pablo Picasso / Guernica, 1937



タイトルのゲルニカ、とはスペイン北部に位置する街の名です。二つの大国フランスとスペインに挟まれたこの一帯は、古くからバスク地方と呼ばれており、スペイン語でもフランス語でもないバスク語という独自の言語を話すバスク民族が住んでいました。

断崖のようにそびえながら東西へと走るピレネー山脈が海岸線に突き当たったそのふもと、バスク地方は特殊なその立地から、大国からの支配を直接受けずに自由自治区として独自に歩んできた歴史がありました。

18世紀のフランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、かつてゲルニカについて伝えています。

ゲルニカには世界で最も幸せな人々が住んでいる。彼らはオークの木の下で、労働組織を通じて自ら問題に対処し、常に賢明に行動している

Jean-Jacques Rousseau


民族の自治決定のための集会は、何世紀にもわたってゲルニカの街にある大きなオークの木(ならもしくは樫の木)の下で行われてきたことから、その木は「ゲルニカの木」と呼ばれて親しまれきました。バスク地方で暮らす人々にとって、オークは自由と自治の象徴であり、ゲルニカは政治的にも文化的にもとても重要な都市でした。

しかし19世紀、ほかのヨーロッパの国々と同じようにスペインもまた近代国家形成が進められていく中で、バスクはスペインの領土となり、納税や兵役も義務づけられます。しかしもともとは言語も文化もまったく違う民族です。次第にバスクの自由と自治体制をふたたび求める声が高まる中、スペイン内戦がおこります。

最終的にスペインで右派独裁政権が成立した後には、バスク人はバスク語の禁止、民族的な習慣を撤廃、伝統文化の廃止などが行われ、政府は叫びます。


「我々、スペインはひとつ!」



スペイン内戦のその最中、1937年に右派党軍部と手を組んだドイツ政府は、スペイン遠征バスク討伐を決め、人類史上初と言われる一都市無差別爆撃を行います。

1937年4月26日、よく晴れた春の日でした。その日はゲルニカで定期市場が開かれており、近隣の農村からも住人が集まって、街はいつもより少しだけ賑わっていました。午後4時半頃、遠くから一機、そしてその後に隊列を組んだ飛行機が、こちらへ向かって高い空を飛んできます。

まず高威力の爆弾を投下して建物を破壊してから、戦闘機が逃げ惑う住民を掃射します。その後、爆撃機が20分おき数時間にわたって絨毯爆撃を繰り返し、最終的に約6000発もの焼夷弾が落とされて、地上は2500℃の炎に包まれます。そうしてゲルニカの街は壊滅しました。


翌日、右派党軍部は、ゲルニカの街の大火は「バスク人みずから火をつけた自作自演である」と声明を発表。しかし現地に派遣されていた数人の外国人記者によって、右派党軍部とドイツ軍の関与が記事になり、そのニュースをパリで受け取ったピカソは、自国の凄惨な状況にとてつもない怒りと悲しみを覚えます。そしてひと月アトリエで、横幅8メートルほどの巨大なキャンバスに向かい、大作「ゲルニカ」を描き上げて、翌月のパリの万国博覧会のスペイン館にて発表しました。


+

あの日、パリ万博のスペイン館入口ホールの壁面を埋めるようにして展示されていたモノクロームの巨大な絵、ピカソのゲルニカを見た時の衝撃を、ボーデは忘れることはありませんでした。

新しい芸術や新しい思想は、退廃芸術の名で呼ばれていた先の時代。社会的地位をはく奪され、作品を押収され、職を失い、制作も禁止され、身を潜め、亡命を試み、自殺した者もいました。ボーデはそうした作家たちの作品を集め、一つ一つ会場に並べていきます。

そうして、シャガール、キルヒナー、ココシュカ、クレー、カンディンスキー、シュヴィッタース、ノルデ、ブラック、キリコ、デュフィ、マティス、モンドリアン、ルオー、ムーア、ピカソなどをはじめとするかつての退廃芸術家たちを中心とした148名の現代アーティストたちの作品が展示され、ドクメンタは開かれます。

彼らの名を退廃芸術のそしりから復活させ、現代における新しい価値観を受け入れること。自由に見て、自由に話し、喪失した空白の時間を取り戻すこと、そのためにドクメンタは開催されました。

© documenta archiv / Ausstellungsplakat documenta 1955



そしてそれは大反響を生み出します。まるで乾ききった喉の深くに水が染み渡っていくように、大勢の人たちが渇望していたものが、そこにありました。

結果的に、第一回目のドクメンタは歴史的な大成功として語り継がれることになります。理由はもちろん集められた作品にあるのでしょうが、観客の賞賛の多くは「演出芸術」とまで言われたボーデの展示手腕にあったと言われています。ボーデは戦後の廃墟を展示場とするにあたって、できる限り余計な装飾を排し、最低限の箇所にだけ壁を建て、ほかは基本的に黒と白の薄手の大きな布と照明を使って全体の雰囲気を統一し、会場をまとめあげました。


d1 1955 / Foto : Günther Becker / © documenta archiv
d1 1955 / Foto : Günther Becker / © documenta archiv
d1 1955 / Foto : Günther Becker / © documenta archiv
d1 1955 / Foto : Günther Becker / © documenta archiv
d1 1955 / Foto : Günther Becker / © documenta archiv
d1 1955 / Foto : Günther Becker / © documenta archiv
d1 1955 / Foto : Günther Becker / © documenta archiv
d1 1955 / Foto : Günther Becker / © documenta archiv



ボーデはその後もドクメンタを継続して開催し、それは回を追うごとに大きく、さらに挑戦的になっていきます。ボーデがディレクターの座を降りた5回目以降は、毎回5年ごとに総合ディレクターが交代し、独自のテーマと方向性で総指揮を執る現在のドクメンタスタイルが始まります。

6回目のドクメンタが閉幕するのを無事に見届けた翌日、77歳でボーデはその生涯を閉じますが、ドクメンタはボーデの意志を継ぎ、国際的な現代美術展の代名詞となって、今日に至るまでの長い歴史の中で、常に時代の変化に敏感であり続け、新しい価値観に対して決して黙することなく挑戦し、議論の場を広く提供してきました。

現在進行形で進む現在という時代における芸術の意味を問い続けること、それはドクメンタがその初回から請け負った使命であり、そうした時代のリアリティこそがドクメンタの持つ最大の魅力となっています。

そして現在、芸術はいったい何を問われているのでしょう。



つづく


この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?