ドクメンタ15 われわれの国のはて
①
カッセルという街へ行ってきました。
ドクメンタを見るために。
ドクメンタ、とはドイツのカッセルという街で、5年に一度、100日間だけ開かれている大きなアートの展覧会です。世界中から集められたたくさんの作品や演目が、街中の建物や屋外に展示され、来場者は街の地図を片手に数日がかりでそれらを見て回って楽しみます。
いわゆる国際芸術祭、と呼ばれるタイプの展覧会、ドクメンタはその最初期のもののひとつで、もう70年ほど前からずっと今日まで定期的に開催されてきました。
このドクメンタが開かれているカッセルは、地理的に言ってちょうどドイツの真ん中あたりに位置する街で、日本でも有名な「白雪姫」や「オオカミと七ひきのこやぎ」、「ラプンツェル」や「ブレーメンの音楽隊」や「ヘンゼルとグレーテル」、また「赤ずきんちゃん」や「シンデレラ」なども含め、たくさんの童話が詰まった「グリム童話集」のグリム兄弟が住んでいた街としても有名です。
とはいえ、グリム兄弟は童話作家であったわけではありません。彼らは当時の文献学者、今でいう言語学者でした。特に兄のヤコブは研究者として優秀で、近代ドイツ語文法をまとめて全集として発刊しただけでなく、編纂に取り組んだドイツ語大辞典は最終的に33巻もの膨大な量となって兄弟の死後に完成し、世界最大の辞書としてギネスに認定されるほどでした。グリム兄弟の業績はドイツ語の世界だけでなく、言語学という学問においても大きな足跡を残しています。
そんな高名な研究者であったグリム兄弟が、なぜ童話集なんて出版したのでしょう。
いや、そんなことよりドクメンタの話は?
グリム兄弟の長男ヤコブが4歳の頃、1789年、お隣の国フランスで革命が起こります。聖職者や貴族を特権身分とする絶対王政が、「自由・平等・友愛」を掲げたブルジョア市民によって倒されて、その混とんとした勢いのまま国民投票で皇帝となったナポレオンは近隣国からの圧力をはねのけただけでなく、疾風のごとく怒涛の快進撃をおさめて一気にヨーロッパの大半を征服してしまいます。
ナポレオンによるヨーロッパ支配は短期的なものでしたが、フランスで起こった変革の波をヨーロッパ中に伝播させるには十分でした。市民たちが立ち上がり、自らの手によって打ち立てた新しい社会。市民革命、人民主権、国民国家。それは「王様の国」から「我々の国」へ、という意識改革の波でした。
実はこの頃、現在のドイツがある中央ヨーロッパは、フランスのようなひとつのまとまった国ではなく、ドイツ語を話す300以上もの小国家の集まりでした。それをナポレオンが一気に征服していったものですから、それまでバラバラとしていたドイツ各地方でも、ひとつのまとまった我々の国を、と言った国民感情が生まれ高まり広がっていきます。
グリム兄弟によって「グリム童話集」の初版が刊行されたのは1812年、まさにそうしたナポレオンによるドイツ占領下のことでした。
グリム兄弟は、各地に伝わる土着の伝説、おとぎ話、言い伝えなどを様々な人たちから聞いて集め、土地に根付く伝承話に、自分たちの民族的なアイデンティティを見出そうとしたのです。
ナポレオンがヨーロッパを支配していった、この1800年を跨ぐ時代に、グリム兄弟と同じ空気を吸っていたドイツ語圏の人たちの中には、カント、ゲーテ、シラー、フンボルト、フィヒテ、ヘーゲル、ハイドン、ベートーベン、ヘルダーリン、ノヴァーリス、フリードリヒやハイネなど、いわば現在のドイツに連なる近代の幕開けを代表する文学者、思想家、画家、音楽家、詩人、批評家、哲学者などが揃っています。
彼らの残したものは、人々に寄り添い、愛され、文化、芸術、思想と呼ばれ、「我々の国」の在り方を示す基盤とされました。
さてしかし、21世紀を生きる私たちはすでに、この「我々の国」の行く末を知っています。
かつてグリム兄弟が居を構え、伝え聞いたたくさんの童話を熱心にまとめていた頃の風情ある美しい街並みは、残念ながら今のカッセルに見つけることはできません。
この街は、第二次世界大戦のその折りに、土地のほとんどを焼き尽くされているからです。
きれいに立ち並んだ伝統的な建築群である木組みの家々は、イギリス軍の焼夷弾空爆の爆撃対象として、その多くが焼き払われ、幾度もの大空襲によって街は燃え、多くの住民の命は失われました。
もちろんカッセルだけでなく、ヨーロッパ中が戦火に見舞われ、その火は各地に飛び火して、銃を持ったすべての国の人たちが祖国のために戦って、世界中でたくさんの人が死にました。
そしてそのころ、「我々の国」は、いつのまにか我々以外を「不純」とし、それらを消し去ることを「浄化」と呼ぶようになりました。
当時の政府が考えた「我々の国」の思想はひどく単純で浅薄なものでした。その特徴は、「我々は、血統として人種的に優れている」といった人種主義思想でした。
自分たちの優性を信じ、多様を許さず、弱者を敗者と呼んで、枠から外れることを堕落と蔑み、人ひとりの想いは全体のためにないがしろにされました。
「我々」とは異なる意見を封殺するために、焚書が行われました。焚書とは本を焼くことです。何台ものトラックによって運ばれてきた大量の本が、街の中央広場にうずたかく積み上げられ、油が注がれ、火がつけられます。
ベンヤミン、ブレヒト、ダーウィン、アインシュタイン、フロイト、ハイネ、ヘミングウェイ、カフカ、ヘレン・ケラー、マン、マルクス、プルースト、シュタイナー、ゾラなど、何万冊もの本が浄化の対象となり、怒号とともに薪のように次々と火にくべられていきます。
ユダヤ人であり、近代ドイツを代表する詩人のハインリヒ・ハイネは、自分の本が焼かれる100年も前に、予言めいた戯曲の一節を書き残しています。
優性である「我々」以外を排除していく文化戦略によって突き進んだ政府は1938年、2つの大きな展覧会を開催します。一つは大ドイツ展覧会、そしてもう一つは退廃芸術展でした。言い換えれば、それらは人種的優性芸術展と劣性芸術展でした。
政府によって、純粋で優性な血統に値する素晴らしい芸術作品とされた作品は、大ドイツ展覧会に展示され、逆に純粋でない劣性な芸術作品は「退廃芸術」という呼称で呼ばれ、作者には「退廃芸術家」の烙印が押されました。彼らは芸術家として認められず、作品は押収され、制作することを禁じられ、展示もまた禁止されました。
印象派、キュビスム、表現主義、ダダイズム、シュルレアリスム、ウィーン分離派、バウハウスなど、ほぼすべての当時の革新的な現代美術は「退廃芸術」と分類され、国中の美術館から20000点以上が押収されたのち、いくつかは焼かれ、多くは外国で競売にかけられ売却されました。
そしてそのうちの600点余りが、見せしめの劣等芸術として、退廃芸術展に展示されます。
歴史上、ここまではっきりとした意図をもって企画され、展示作品の見方を誘導し、200万人というかつてない動員数を呼び込んだ、にもかかわらずそれについての議論が一切許されなかった展覧会はほかにありません。
会場では、ほぼすべての作品に対して、丁寧に罵詈雑言の説明書きが書き添えられ、インフレ時代の高騰した作品の美術館購入価格を併記して、税金の無駄遣いだといった具合に観客の怒りを煽り、いくつかの絵画はわざと斜めに傾けて掛けられ、正しく壁に掛ける価値すらないことを示されました。また現代的な絵画のすぐ隣に、当時、病的とされた人たち、または障碍をもつ人たちの写真を並べ、観客に不安感を抱かせることが意図的に行われました。
優性であること、それだけが正しさであり、誰もが口を閉じておびえながら、自分は劣性側ではないことを示めさなければならない時代でした。
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1945年、戦争が終わります。たくさんの人が死に、国は解体され、土地は分割され、清算が行われ、負債が課せられます。
捕虜となっていた一人のドイツ人兵士が、オーストリアとの国境近くでアメリカ軍から解放され、700キロの道のりをただひたすらに歩き続けて故郷カッセルの地に戻ってきました。
自分の生まれ育った美しい街はあたり一面が焼け野原と化し、燃えて崩れた建物の瓦礫の積み重なった風景が、ずっと延々続いています。
男の名前はアーノルド・ボーデ、一人のアーティストであり、デザイナーであり、カッセル美術大学の教授であり、そしてまた、彼もかつて国によって退廃芸術家と呼ばれた人でした。
かつて人々の心に寄り添い、愛されていたはずの文化、芸術、思想はもはやその跡形もなく、ぽっかりと大きく開いた喪失にまるごと飲み込まれてしまったかのようでした。
1955年、まだ戦後の復興もままならない中、かつて「退廃」のそしりを受けたひとりの芸術家の手によって、第一回目のドクメンタは開かれます。