見出し画像

抽象表現作家のウィレム・デ・クーニングの破天荒な生き方と作品

ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)

ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning,1904-1997/オランダ系アメリカ人- 抽象表現主義の画家)
アクション・ペインティングの激しい筆触が特徴的だ。       (註)破天荒:未踏の境地を切り開く

そして、ウィレム・デ・クーニングは、ジャクソン・ポロックと双璧をなす、アクション・ペインティングの代表的作家であり、抽象表現主義の創始者の一人として、20世紀美術史の上に重要な位置づけは間違いないだろう。

画像4
Excavation(発掘/1950)

略歴- Willem de Kooning

1904年、ロッテルダム(オランダ)に生まれた。
デザイン関連で働くかたわら、ロッテルダム美術工業学校(夜学)で学んでいる。
オランダ時代には、「デ・ステイル」(De Stij/建築や抽象絵画、バウハウスへ影響) 運動に接している。

1926年、渡米する、それは、密航だった・・

1926年、渡米する(イギリスの貨物船にて、密航だった)。その後、ニュージャージ州の教会に滞在、塗装・建築の仕事に関わる。それ以降、ニューヨークに移り、マンハッタンを拠点にアメリカで活動する。そのニューヨークでは、アートスクールでも学んでいる。(妻とは、そこで、14歳の時に知り合っている
1927年、アーシル・ゴーキー(Arshile Gorky,1904-1948/アルメニア出身-画家/抽象表現主義・シュルレアリスム)と知り合い、影響を受けている、ある意味、師であるだろう。
ウィレム・デ・クーニングは、1930年代半ばまでは、デザイン関連の仕事で生計を立てていた。

WPA(公共事業促進局)の連邦美術計画(FAP)の仕事にも携わる。

1935年、抽象画家(ポロック、マーク・ロスコ他)たちと共に、WPA(公共事業促進局)の*連邦美術計画(FAP)の仕事にも携わっている。
ただ、1937年、デ・クーニングにアメリカ市民権を持たないことが発覚し、連邦美術計画から追放される。

(註)*連邦美術計画(Federal Art Project)とは、ニュー・ディール政策(New Deal/ルーズベルトの世界恐慌における経済対策事業)の一環として、画家たちに公共建築の壁画の制作等を委嘱したものである。

アクションペインティング形式で抽象表現主義の核を成す

1939年、ニューヨーク万国博覧会のファーマシー・ホール(Hall of Pharmacy)で壁画の一部を割り当てられた。そして、この仕事でデ・クーニングは、新しいイメージを描き、それは多くの注目を集める。

画像6
New York World's Fair-1939

第二次世界大戦後、ニューヨーク・スクール (New York School/1950-1960年代のNY前衛芸術集団)のメンバーとして知られ、アクションペインティング形式で抽象表現主義の核を成していく。

黒と白の絵画シリーズ

その後の流れは、1946-49年頃には、黒と白の絵画シリーズを始める。

画像2

Willem de Kooning

1948年、ニューヨークのギャラリーで初個展を開催している。

女性のシリーズ

1950年代からは、女性のシリーズが知られている。

画像6
Woman - Willem de Kooning
画像3
女と自転車(1952-53)-ホイットニー美術館-NY

ポロックのいわゆる「ドリッピング」(滴らせ撒き散らしたラジカルな作品)絵画とは異なり、デ・クーニングの描く「女性」はキャンバスに筆で描いたものである。
ただ、感情で筆をしたためている、それは抽象に近い。
当初は、部分的に女の身体が壊され、抽象がかった具象画だ・・・
その後は、カンバスから具体性のあるイメージを排した抽象的な作品を描く。
1960年代後半から再び「女」のテーマに取り組んでいる。
その女性像はデ・クーニングのアートに於ける業績だろうし、その人生において重要な位置付けだろう。

ポロックは、ドリッピングによってスター扱いされ失速

ポロックは、ドリッピングによってスター扱いされ、その後、失速してしまう、そして、1956年、交通事故で命を落とす、なんとも辛い話だ。
双璧のウィレム・デ・クーニングは、その後、40年後の1997年まで、エネルギッシュに絵筆を動かしていた訳だ。
また、ウィレム・デ・クーニングは、ノースカロライナのブラック・マウンテン・カレッジ(Black Mountain College)で教えていた。

画像8
画像7
by Willem de Kooning
画像5
Willem de Kooning and his wife

密航者として、アメリカに渡り、それを内密に、ニュー・ディール政策に加わり、市民権がなく追放もされ、14歳の少女との恋愛(のちの妻)、ある意味、破天荒でなくては、生き抜けない時代だったかも知れない、浮き沈みもあっただろうが、いずれにしても、結果を確実に出した作家だ、そして、後進のために尽力している。
その破天荒(未踏の境地を切り開く)な生き方からも、あのアーシル・ゴーキーの影響下にあることは、確かだろう。

この記事が参加している募集

#とは

57,791件

#コンテンツ会議

30,744件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?