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写真家カール・ストラスのスキルチェンジ

カール・ストラス(Karl F. Struss,1886-1981 US)
ドイツ系アメリカ人の写真家であり、その後、映画の撮影監督としてのカメラマンだ。
フォト・セセッション(ピクトリアリスム)に参加している、そして、フォト・セセッションは、写真を芸術に引きあげつ方向性にあったということだが、その解散の後、そのメンバーは、多様な方向性を示唆している。
ピクトリアリスムの時代の写真家は、科学(写真化学・機械工学)と芸術(アートとしての写真の方向性の模索)を追った。
それは、現在(2020年)に於ける、スキルアップから、スキルチェンジの時代の方向性と近似しているということだろう。そんな次第で、フォト・セセッションのメンバーを追ったが、今回が最後となる人物カール・ストラスのフォト・セセッションからの転換期(スキルチェンジ)までを記載した。

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(c)Karl F. Struss

略歴
1886年、ニューヨーク生まれ。コロンビア大学でクラレンス・H・ホワイトに写真を学ぶ。
ストラスは、クラレンス・H・ホワイトの影響下で、学際的な視点(芸術・写真化学・機械工学・光学)で、として、多層プラチナ印刷プロセスを研究開発、また、映画のためのストラスピクトリアルレンズ(ソフトフォーカスレンズ)を開発している。
1910年、「Albright-Knox Gallery 」(New York)での写真の展示で、スティーグリッツから、ストラスの写真は着目された。
1912年、スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)のフォト・セセッションに参加している。その機関誌「カメラ・ワーク」作品が多々、掲載されている。
当初は、ピクトリアリスムに傾倒したが、その後、モダニズム(modernism/近代主義)へ流れが変わる。
1914年、クラレンス・H・ホワイトのスタジオ(NY)を引き継ぎ、ポートレート、広告等の商業写真家として活躍した。そこでは、VOGUE(ファッション・ライフスタイル)、Vanity Fair(バニティ・フェア/ファッション・アメリカ的大衆文化、時事)、 Harper's BAZAAR(女性向け、ファッション誌)等の雑誌を担当した。

転換期(1910年代は、ハリウッドの草創期だ)
1919年、第一次大戦後(1914-1918)、ドイツ系アメリカ人でもあり、ニューヨークでの写真家としての活動から諦めを感じて、ハリウッド(まだ、草創期のハリウッドであり、民主主義のあり方も合衆国内でも異なるという事だ)に移り、まずは、映画のスチルカメラマン(movie still photographer)となる。
その後は、パラマウント社等と契約するなどして、主には、セシル・B・デミル(Cecil Blount DeMille,1881-1959)監督や、デヴィッド・ウォーク・グリフィス(David Wark Griffith,1875-1948/映像文法の基礎)監督等の、撮影監督になる。
1928年、最初のアカデミー賞撮影賞をチャールズ・ロッシャーと共に受賞(サンライズ)
ストラスは1970年に引退するまでに、ベン・ハー(1925年)を含む100本以上の映画の撮影監督として関わっている。そして、チャーリー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin,1889-1977)とも仕事をこなしている。(独裁者-1940、ライムライト-1952等)
1981年、サンモニカ(カリフォルニア州)にて死去した、95歳だった。

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Fig.Karl F. Struss

(追記)フォト・セセッション(ピクトリアリスム)の時代の写真家は、科学(写真化学・機械工学)と芸術(アートとしての写真の方向性の模索)を追った。これは、今日では学際(がくさい)と呼ばれるエリアだ。そこから、試行錯誤のうえ、写真家として、ストレートフォトグラフィの世界へ行くものあれば、スキルチェンジして、異なる世界の方向へ、時代背景から行く作家もある。今回のカール・ストラスがフォト・セセッションのメンバーとして最後となるが、彼らの、後半の生き方は現在のそれと近似しているように思われる。ただ、カール・ストラスは、イメージの表象を最期まで追いかけていた事は確かだ。そして、それは、ハリウッドの草創期だった。


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