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ジョゼフ・ヴィトリッヒの色彩と構成(アウトサイダー・アート)

ジョゼフ・ヴィトリッヒ (ジョセフ・ヴィットリッヒ/Josef Wittlich,1903-1982/ドイツ ):アウトサイダー・アート(アール・ブリュット)だ。
その絵画は、学術的な絵画の複製や、ローマ教皇の写真、王室、有名人やモデルの写真や、広告の服や下着の宣伝イメージ等々から、描いてる。そこには、「誰にでも、分かりやすさ」を強調しおり、アウトラインの強さ、形状の単純化し、色彩からは、色のバランスや彩度を考えている。

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(c)Josef Wittlich

略歴:1903年、グラットバッハ(ドイツのラインラントプファルツ州)で生まれる。
Josef Wittlichが、4歳のときに、母親を失った。そして、父親は残忍な対応しか、ヴィトリッヒに出来なかったと言われる。それは、ヴィトリッヒも孤独感が増すだろう、そして、自身が病気であり、学校での授業に追いつくのが難しいことに気づた。その時(1915)に、父親が再婚したが、継母は、より邪険な扱いだった、それは、彼女の連れ子は、精神障害があったから、そこへまで目がまわらなかったのだろう。
そのあたりから、ヴィトリッヒの家出は絶えなかったと言われる。
1920年、ヴィトリッヒは、戦争で死んでも、父親に殴られて死んでも、それは同じことだと言う理屈で、フランスの外人部隊入隊したかったが、ここでも断られた。 
その後、ドイツで農業の労働者として働きながら、自ら絵を画いて行く事になる。
その時の同僚によると、ヴィトリッヒは、自由な時間があれば、昼夜を問わず作品を制作し、それを贈ったり捨てたりしていたと言うのだ。(捨てた作品は、駄作と感じたからだろう)その後の第二次世界大戦では、徴兵されたが、負傷しロシアの捕虜となった。戦後、彼は陶磁器工場で陶器を作る仕事についてた、そして、もう一度絵を描き始めた。その制作は、1982年に亡くなるまで、作品の制作は続いた。

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Josef Wittlich

問題は、その「作品」なのだが、「単純にして明快」であり、既存のイメージから、モチーフを拾っている、そして、彩度も高く、独特な世界がそこには存在するのだ。

WKE zeigt als 1. Begleitausstellung von "AvantPOP" Pop Art von Josef Wittlich(このサウンドのリズムの刻みとジョゼフ・ヴィトリッヒの絵画を見るのは心地よい何かがあるようだ・・)

(追記)ある意味、ジョゼフ・ヴィトリッヒは、作品のテーマを現実に見つける事をしていないと言われる。
そうだろうか?
繰り返すが、学術的な絵画の複製や、ローマ教皇の写真、王室、有名人やモデルの写真や、広告の服や、例えば、下着の宣伝イメージ等々から描いてる。
「誰にでも、分かりやすさ」を強調しており、アウトラインの強さ、形状の単純化し、色彩からは、彩度のバランスを考えているように思われる。アンディ・ウォーホルたちの作品に影響されているのか、それとも・・・
ただ、いずれにしても、ジョゼフ・ヴィトリッヒは、美術界の表に出たいと言う意思はない、「作品」が、物言うアウトサイダー・アーティストなのだ。

(今後のお知らせ)
このコンテスト #2020年秋の美術・芸術 は、コンテストの形式として、3名の入選はございますが、ある意味、ドクメンタ(カッセル/ドイツ-1人のディレクターによるキュレーション)の展示会ように賞はございません。そして、主催者は、多くの企画をされている秋氏のデレクションと、私(artoday)のコメント(評)で構成されております。 それは、「そもそも美術エッセイは発表の場すらない」という視点や、小生(artoday)の、もっと、身近に気軽に、美術、芸術の裾野の広がりを願っての事でもございます。この間は、私のアート系コラムをランダムに、連載致しますが、入稿があり次第、応募作品にシフト致します。(ていねいに査読致したく、多少の順不動お許し下さい)
締め切りは、11/14の24時までございます。どうぞ、気軽に日常のことで、アート関連で、思いつかれた事、アート系のイベントレポート、また、ご自身の美術作品等を応募なさって下さいませ。
(註) #2020年秋の美術・芸術 は全角ですので、よろしくお願い致します。


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