【アートノトお悩みお助け辞典】頁11.わたしと社会保障とあなた
持続可能な仕事ができる創造環境を作るためには、社会保障制度やセルフケアの知識やスキルを身に着け、日頃の安心やもしもの備えとしたいものです。わかってはいるけれど…「実際に困りごとやトラブルが起きないと調べる機会やきっかけがつくれない。」「そもそも、社会保障制度は私に何か関係あるの?」そんな思いをお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。アートノトでは、あらためて知っておきたい社会保障や持続的な活動につながるセルフケアの基本について、わかりやすく知ることができる「社会保障・セルフケア講座」を実施しています。
今回のお悩みお助け辞典では、『社会保障・セルフケア講座2024【社会保障制度の基本を知ろう】』で講師を務めていただいた福岡大学法学部の山下慎一(やました・しんいち)教授に、ご自身の体験を交えながら、社会保障制度を知ることの大切さについてご執筆いただきました。
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わたしと社会保障
社会保障の「しゃ」の字も知らなかった学生時代
社会保障と言うと、皆さんはどんなことをイメージされるでしょうか。……と言っても、イメージが湧かない方のほうが多いかもしれません。そういう私自身も、大学院の博士後期課程に進学するまでは、社会保障のことをほとんどイメージできませんでした。
高校時代、将来のことは特に何も考えておらず、数学などの理系科目が全くと言っていいほどできなかった私は、文系の中で当時もっともつぶしがきくと言われていた法学部に進学しました。ただ、法学部の勉強にはほぼ興味が持てなかったため、所属するサッカーサークルでの活動や、洋服屋さん巡りに多くの時間を費やしていました。就職活動にもあまり熱心に取り組めず、ぼんやりと、弁護士になってサッカー選手の移籍などに関われたらいいなと思い、ロースクール(法科大学院)に進学しました。しかし、司法試験関係の勉強には全くと言っていいほど身が入らず、友人たちと深夜の海外サッカーを見まくる毎日でした。
社会保障の「しゃ」の字も知らなかった当時ですが、振り返ってみると知らず知らずのうちに社会保障と関わっていました。しかし、その関わりはどちらかというとネガティブなものばかりです。
たとえば年金です。「20歳になったら年金に入らなければならない」ということは、なんとなく認識していたのですが、そのことの意味もあまり考えたことがありませんでした。むしろ、若い間はお金を取られるだけだから入らなくてもいいや、と考えていました。学生の間は年金が免除されるようなことを誰からともなく聞いており、いやいやながら手続きをしていましたが、その手続きをし忘れていた期間もあります。とにかく面倒に思っていました。
公的医療保険も同じです。よくサッカーで怪我をしていた私は、頻繁に病院に行っていました。たまに保険証を忘れてしまい、「次回から絶っっっ対に忘れないでください!」と受付の人から強く怒られたこともあります。ひどいときには、「保険証がないならしょうがありません。いったん全額払ってください。後から払い戻しを受けられますので」と言われ、とんでもない金額を請求されたりしました。全額ってどういう意味だよ、なんだこのひどい仕組みは、と思っていました。
私自身がこのような体験をしてきたので、皆さんにとって社会保障が身近なものと感じられないとすると、そのことはよく理解できます。
その後、指導教官との出会いなどのきっかけがあり、博士後期課程に進んで社会保障法を専攻することになりました。そこではじめて、社会保障が自分の生活に広く深く関わっていることを自覚しました。 そして、それまでの自分自身の社会保障に関する体験を、少しずつ理屈として学びました。
社会保障を学んで知ると、ゾッとしたことも
たとえば年金について、「20歳になったら年金に入らなければならない」という表現が正確ではないことを知ります。国民皆年金(こくみんかいねんきん)の仕組みをとる日本では、20歳になったら本人の意思に関わらず、自動的(強制的)に年金に加入した状態になり、それを拒否することはできないこと。つまり、年金保険料を納めないことは、国民年金に加入しないという意思を示す行動ではなく、加入しているにもかかわらず保険料を納めていない状態であり、法的には税金の未納と同じような状態にあること。最悪の場合には、テレビで見るような、所持品に赤い札が貼られる差し押さえにもつながる可能性があったと知り、ゾッとしました。
さらに、強制加入であるがゆえに、学生や収入が低い人のために年金保険料の免除や猶予、減額の制度が設けられていること、そしてこの制度の重要な意味を知ります。手続きさえ正しくすれば、たとえ1円も納めていなくとも、その期間は年金保険料を納めたものと扱ってもらえること。そしてその期間に、事故や病気などで障がいを負ってしまった場合、若いうちから、たとえば20歳からでも障害年金を受給する権利が生ずること。逆に言えば、年金の仕組みを理解しておらず、手続きを正しくしていなかった学生時代の私は、障害年金の権利を自ら手放していたということになり、これもまたゾッとしました。
医療保険についても、普段治療を受けて支払っていた金額はいわば7割引された料金で、7割引を受けるための証明書が保険証であることを知ります。保険証なしで7割引を受けることができないのは、運転免許証なしで車を運転してはいけないのと同じようなことです。さらに、7割引後の治療費についても、1ヶ月ごとに「それ以上支払わなくてもいいライン」が設定されていることを知ります。幸い私自身はそのような高額の治療費を支払ったことはありませんが、これについても知らずに困っている人がいるのではないかと感じました。
このように社会保障はとても身近にあり、私たちの生活を支えているものであると同時に、知らなければ損をしてしまうものです。ただ、その仕組みはとても複雑で、専門家ですら理解が困難な状況になっています。現に、専門家の端くれである私も、博士号を取って大学で働き始めた後ですら、社会保障をうまく使いこなせずに損をした経験があります。
では、どうすればいいでしょうか。1つの方法は、当たり前のようですが、社会保障について知ることです。
あなたと社会保障
受けられる社会保障と受けられない社会保障を知る
今この文章を読んでくださっているあなたは、どのような働き方をしているでしょうか。もしあなたがフリーランスとして働いているのであれば、あなたが受けられる社会保障と受けられない社会保障について、より知っておくべきことになります。というのも、日本の社会保障は、フリーランスに対する保障を十分に行っているとは言えないためです。
例えば、会社などに雇われて働く人(労働者)は、アルバイトでもパートでも契約社員でも派遣社員でも、自動的に労災保険に加入します。仕事中はもちろん、通勤中のケガや病気も対象です。給付内容は、ケガや病気の治療費が全額無料になったり、入院中で働けない期間の給料の8割相当額が保障されたり、障がいを負った場合や亡くなった場合には本人や遺族が一生涯受けとれる年金が出たりします。社会保障の研究者の視点からは、民間保険にはとてもまねできないような充実した内容だと思います。
ところが、フリーランスで働く方は、原則としてこの労災保険の適用対象外です。理由は、労災保険が労働者を対象にしているから(そしてフリーランスは法的に見ると労働者ではないから)です。「衝撃的な事実だ!」と思う方もいらっしゃるでしょう。私もそう思います。労働者であれフリーランスであれ、仕事に関係してケガや病気を負った場合は、同じような保障を受けられるべきですよね。
フリーランスも手続きをすれば労災保険に特別加入できる
実際に、このようなフリーランスの環境を是正しようという動きがあります。令和6年11月1日に特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律(フリーランス法)が施行されたこととも関連して、特定受託業務に従事する方(つまりフリーランスの人など)が新たに労災保険の特別加入制度の対象となりました。労災保険の保障を希望するフリーランスの人は、手続きをすれば労災保険に特別加入することができ、それによって、労働者とほとんど同じ保障を受けることができます。詳しくは、厚生労働省のサイトや東京芸術文化相談サポートセンター「アートノト」の社会保障・セルフケア講座2024をご覧ください。
このように、労働者かフリーランスかの違いで受けられる社会保障が異なります。ただ、労災保険の適用の有無という問題は、ほんの一例です。社会保障はとても複雑で、全体像を知るのはなかなか簡単ではありません。
自分の本を紹介して恐縮ですが、『社会保障のトリセツ(第2版)』(弘文堂、2024年刊)には、皆さんの抱えている悩み事から適切な社会保障制度を逆引きするためのフローチャートを付けており、制度の全体像が少しでも見えやすくなるような工夫をしています。また、『社会保障のどこが問題か』(ちくま新書、2024年10月刊)では、労働者とフリーランスの社会保障の差異の全体像と、その歴史的な経緯を解説しています。よろしければ是非ご覧ください。
私自身は、芸術文化領域で働かれている皆さんを支えるための社会保障が、もっと充実すべきだと考えています。それによって、皆さんが安心して芸術文化活動に打ち込むことができれば、日本社会全体が、経済的に、そして何より精神的に、より豊かになるはずです。
そのような社会の実現に向けた研究を、これからも続けていきたいと思っています。ご自身の生活を安心して送るために、皆さんも是非、社会保障に興味を持っていただければ幸いです。
(山下慎一)
執筆者プロフィール
山下慎一[福岡大学法学部教授]
1984年長崎県西彼杵郡(現・諌早市)生まれ。九州大学法学部卒業。九州大学大学院法学府公法・社会法学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(法学)。社会保障法学を専攻し、「利用者にとって使いやすい社会保障」をテーマに研究・教育に取組んでいる。主著に、『社会保障のトリセツ――医療・年金・介護・労災・失業・障がい・子育て・生活保護 困ったときに役所の窓口に持っていく本』(弘文堂)。動画として、夢ナビ:福岡大学法学部教員によるミニ講義「社会保障法とスポーツ選手 -2つの引退って?-」。
社会保障・セルフケア講座2024
あらためて知っておきたい社会保障や持続的な活動につながるセルフケアの基本を学ぶ講座です。社会保障制度、労務、健康管理など、大切だけれど見過ごされがちな、もしものときに活用できる仕組みや、実践的な取組について解説します。現場で活躍する実践者が聞き手役として受講生と共に学ぶ回もあります。持続的な活動のための知識としてぜひご利用ください。
“雇う”ときに必要な手続きや労務管理を知ろう(講座終了・アーカイブ準備中)
創造活動を続けるために、心と身体のセルフケアを知ろう(2024年11月26日開催・申込受付中!)