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境界線の曖昧さゆえに、我あり

我思う、故に我あり

デカルトな有名な言葉で、
私自身、人間がなぜ人間であるのかを考える際に
デカルトのこの言葉が常に頭に浮かぶのですが、
ではなぜ「思う」のか、ずっとその理由を考えていました。

人が「思う」のは、
自分自身が持っている欲求を、
社会という枠組みに落とし込んで、
すり合わせるという作業をしていかなければいけないからだと思うのです。

でも、そもそも社会っていう枠組みがあやふやで
誰かが決めたルールも、
その境界をものすごく拡大して見てみると
意外と曖昧だったりしませんか?
なぜその曖昧な境界を正だと信じて、
自分の本来の姿を見せてはいけないのか

功利主義の考え方、
『みんな(関係者全員)』の利益・幸福を目指す事がルール作りのベースになっていると仮定して、
その「みんな(関係者全員)」の利益や幸福は
本当に全員の利益や幸福なのでしょうか
では、規範論の「べき」は誰にとっての
「べき」なのか・・

社会は人間一人一人の集まりを言い、
分解すると一人の人間になるとしたら
それを「みんな」や「社会」で纏めることが
そもそも不可能なのではないかと思います

その中で社会という枠組みと
一人の人間である自分という境界を
ベン図みたいに重ねて
我「思う」取る「べき」行動を
日々選択していく事で積み重なった苦しさが
人間であることの定めであり、
「思う」理由なのかなと思ったりします
そうやって「思う」事で曖昧なルールはおおよそ守られ、
人が生きる世界に秩序が生まれているような気がするのです

人間でいる限り本当の自由はないのかもしれない
いやそもそも本当の自由とはなんなのか・・・

あまりに進撃の巨人が大好きな私が
次回その辺りについて書いてみたいと思います!


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