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力と欲望を味わう -バルザックの小説の面白さ

 

 
 
【水曜日は文学の日】
 
 
今は2024年、21世紀の前半。ということは、私のように、20世紀生まれの人間がそれなりに生きているということです。
 
世紀で区切ることはできても、実際のところは、それをまたがって生きる人間がいるわけで、そこですっぱりと時代が変わるわけではない。実のところ、20世紀後半に生まれた人間は、19世紀の影響もまた残っていると思っています。
 
バルザックは、そんな19世紀のある種の特徴を、広範に捉えることができた小説家です。
 
そして、現在まで続く変わらない部分(それはまあ、資本主義と呼びましょうか)と同時に、その原初の、今では見られない部分も残しており、今読むと大変面白い作家です。




オノレ・ド・バルザックは、1799年フランスのトゥール生まれ。家庭の都合で1814年、パリに出てソルボンヌ大学で法学を学びます。


バルザック


 
卒業するも、公証人になる道を拒否して、執筆活動を開始します。全く芽が出ず、ありとあらゆるジャーナリスティックな記事も書き、出版業にも手を染め、新聞や雑誌を世に出すも、大量の借金を抱える始末。
 
しかし、1831年の小説『あら皮』辺りから、ようやく、何かがかみ合い始めます。
 
『ゴリオ爺さん』、『谷間の百合』と、豊饒な傑作を連発すると、1842年には、それまでの著作を、「哲学研究」や「風俗研究」等、体系立ててまとめる『人間喜劇』の構想を発表。
 
既に自家薬籠中の物としていた、作品をまたがる「人物再登場」の手法と併せて、その構想力は、後の小説家にも大きな影響を与えています。
 
コーヒーを鍋から掬って飲んで徹夜で書き続けるという伝説的な執筆スタイルで、凄まじい勢いで作品を発表するも、流石にそれを続けられるわけもなく、徐々に病み衰え、1850年、51歳で亡くなっています。






以前スタンダールについて長めに書いた時に少し触れましたが、バルザックの小説の特徴は、空間をすり抜けていく、煙のような言葉です。



 
『ゴリオ爺さん』のあの延々と続く開幕の描写のように、まずは空間が象られると、そこを埋めるかのように、言葉が積み重なっていきます。
 
そこで埋めていく材料は、何といっても社交界の噂話と、金銭(主に債務)を巡るやりとりです。

前者は、『ゴリオ爺さん』や『谷間の百合』等、あらゆる小説に断片として転がっていますし、後者は『セザール・ビロトー』等の長篇だけでなく、『ゴプセック』や『禁治産』といったあからさまな債務・借金のやり取りを巡る、面白い短編小説もあります。
 
そして、興味深いのは、とにかく一つの場面で連なる言葉が大蛇の如く長いので、いつの間にか場面が変わって、人々がしれっと会話を始めることが多いということです。そこら辺が「ん?」と思うこともあります。
 
現代の小説だと、もっと場面の切り替えをスムーズにして繋げるものでしょう。これに比べると、19世紀後半の、トルストイやドストエフスキー等の小説家の場面切り替えは、大変洗練されていると感じます。
 
この空間の独特の把握方法を含めて「プレ・小説」の面白さがあります。





藤原書店のバルザック選集第3巻『十三人物語』の、山田登世子氏と、中沢新一氏の解説対談の中で、中沢氏はバルザックの「聖杯」を巡る大変興味深い話をしています。
 
つまり、バルザックは広い意味で「力」を扱う作家であり、その力のありかを巡って、どんな願いもかなえる「聖杯」というものの問題になってくるのだと。
 
これは大変面白い視点です。そう考えると、確かに、バルザックの小説を貫くのは、人の欲望を何でも叶えるパワー、つまり「力=権力」の在りようです。






金銭が、何でもとは言いませんが、ある程度願いを叶えてくれる力の表れであることを否定する人はいないでしょう。
 
そして、社交界のうわさ話や秘密、陰謀とは、人間の間で巡る、性を含めた力の源泉がどこかについての、言葉による果てしない詮索と言うべきでしょう。

『ゴリオ爺さん』の主人公ラスティニャックのように、その社交界に揉まれて力をつけてのし上がるキャラクターもいます。
 
力とは金銭が全てではありません。何せバルザックは、元はただの一介の軍人なのに、「力」を手に入れて、皇帝にまでのし上がった、ナポレオンという男の同時代人だったのですから。


ナポレオン・ボナパルト




一度は失脚したナポレオンが、幽閉先のエルバ島から脱出して、パリに戻って復権したのが、1815年、バルザックが16歳の時です。
 
ワーテルローの戦いに敗れて、百日天下に終わりますが「私は皇帝である、わかるか」と沿道の人に問いかけただけで、民衆の熱狂を生み出したという、その力の在りようを、パリのバルザック少年は、まじまじと実感したはずです。
 
どれだけお金を積んだって、軍人が皇帝になれるわけではない。では、何が力の源泉になるのか。それをひたすらバルザックは追求します。

性(『サラジーヌ』)、結婚(『ウジェニー・グランデ』、『毬打つ猫の店』)、金銭(『娼婦の栄光と悲惨』)、社交(『ゴリオ爺さん』)、マスコミ(『幻滅』)、政治(『暗黒事件』)、芸術(『知られざる傑作』、『ガンバラ』)、時にはオカルトの域に入る神秘学(『セラフィタ』)。

あらゆる人物を創造し、組み合わせて、力が生まれていく。
 
その力がぶつかり、時折日常とは違う闇の世界が現れます。
 
『金色の眼の娘』の、目隠しされて、蠱惑的でエキゾチックな娘の前に連れていかれる場面は、まさに日常に裂け目が出来て、今まで見たものをなぞっていた言葉が、急に神秘をかたどるような、異様さがあります。
 
この闇の感触もまた、力の陰画なのでしょう。夜を描写しているわけではないのに、バルザックの小説には、神秘的な闇が光の中でうごめいているような感触があります。





自分の願いを叶えてくれる代わりに段々と縮み、持ち主の命をも、じりじり奪っていく不思議な魔法の皮を巡る『あら皮』は、そうした力と神秘の在りようをあからさまに示しています。

この作品によってバルザックの才能が開花したのは何とも示唆的です。




そして、バルザックがその創作の「力」を失っていくのは、フランス第二共和政期で、妖しいごった煮の力が、金銭と社会秩序の形成に整理されていく過程でもありました。
 
ナポレオンや、大泥棒からパリの警視総監にまで成り上がったフランソワ・ヴィドック(『ゴリオ爺さん』等に出てくる大悪党ヴォートランのモデルと言われています)が跋扈していた、魑魅魍魎の闇と光の時代は終わります。
 
バルザックが書き散らして、一見とっ散らかっていた小説というジャンルも、コードや方式が出来て、「やばい何か」に触れることは少なくなっていく。

それが、つまり19世紀後半から20世紀までの社会の基礎のありようとも言えます。




だからこそ、今バルザックを読むのは、大変刺激的な体験です。
 
何せ今は、インターネットという、金銭とはまた違う、「言葉」と「力」を巡る道具を、誰もが手にしている時代なのですから。
 
私たちを変え、社会の在りようを変えていく力とは何なのか、それを考える意味でも、バルザックの小説は、今もまだ開かれた作品群のように思えるのです。
 
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイや作品で
またお会いしましょう。


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