【レビュー・批評#5】重力の中で愛すること -スタンダールの作品世界
フランスの19世紀の小説家、スタンダールの作品世界では、重力が全てを支配します。ここで言う重力とは、大地と空の間で上下に行き交う強烈な磁力のことです。
この世界で人々は重力に操られるかのように、絶えず誰かを見上げ、見下ろし、階段を上り下りしてはひっきりなしに建物に出入りします。驚愕して跳ね、駆けだしては躓き、怒りのあまり倒れる。彼らは垂直方向のいわば「重力運動」を飽かず試みます。あたかも、垂らした操り糸を出鱈目に上下させられて暴れ回る、操り人形のようです。
そして、この重力に翻弄される人間たちの運動の軌跡を細切れに繋ぎ合わせたものが、スタンダールの小説と言えます。
スタンダールの世界には、運動はあっても空間は存在しません。部屋だとか建物だとかは、運動を強調するために一時的に背後に飾られる、ただの壁紙です。言い換えると、彼にとっての小説とは、運動が導く時間の結晶です。
バルザックと比べてみれば分かりやすいでしょう。バルザックの小説では、空間は描写されることで存在し(『ゴリオ爺さん』のあの延々と続く冒頭の描写)人々はその中に瓶詰めされ、狭いサロンや閨房で立ったまま、あるいは四輪馬車の座席に腰掛け顔を寄せ合って、噂話、秘密の告白、債権を巡る駆け引きを延々と続けます。
場面が変わるときは、人々はまるで足を使って動くことがないかのように、いつの間にか別の空間にいて、再びお喋りを始めます。バルザックの世界には時間の概念はなくて、人々の口から漏れた言葉は、断言や結論を導くことなくふわふわと空間を満たして、いつの間にか消えていくのです。
スタンダールの世界において人々が使う言葉は(口にされようが頭の中で繰り返されようが大差はなく)常に感嘆符と断定を伴って刻み付けられ、それが大蛇のように連なって熱を発すれば、陰謀、密告、脅迫となります。
そしてこの世界で、言葉は緊密に垂直=重力運動と結びついています。重大な言葉が発せられた後に必ず人々の間に重力運動が起こるのです。
『ヴァニナ=ヴァニニ』のヒロインは最も典型的なスタンダール世界の住人でしょう。ピエトロとの逢瀬でカタンツァラ総監のレモネードを(あたかも毒が入っているかのように)叩き落として、彼の信用を得て騙すのも、全て同一の原理に基づくアクションです。
そして、彼女の行動が政治的意図とは別にカルボナーリを粛清したように、重力運動と言葉が導くものは、いわば「権力」です。それは砂鉄を引き寄せる磁石のようなものであって、その極点において権力が始まります。
スタンダールの小説に権力関係が溢れかえっているのは言うまでもありませんが、無論それはイタリア独立運動だとか、パルムの宮廷だとか、法曹服を着た裁判官とかだけを意味しません。
『パルムの僧院』のサンセヴェリーナ公爵夫人は、身を投げ出し跪くことでクレセンチ侯爵を動かして、愛するファブリスを救う道具にすれば、逆にエルネスト五世は文字通り彼女を見下ろして彼女を我が意に沿わせる。スタンダールにとっての権力とは、人が人の意志を曲げさせて操る力に他なりません。
スタンダール世界の登場人物が語るか心の中で呟くのは、ただ一つの言葉に集約されます。「私は権力を行使して他者を従えられるか否か」。つまり、重力運動がいかなる帰結を迎えるかの推測であり賭け金であり、思考の組立であって問いかけであり、顕示であって告白ではありません(「あなたに私のしたことを知っていただかなければなりません」ヴァニナのこの言葉は懺悔の告白ではなくピエトロに自らの愛の深さを解説するために口にされます)。
スタンダール世界の権力者(前記の通り、金持ちや地位の高い者や王を必ずしも意味しません)は皆、言葉と重力と権力の三位一体のメカニズムに気づいています。
なぜ言葉は重力に結びつくのか? この重力に満ちた世界に空間の概念がない以上、言葉しか自らの存在を表すものがないからです。なぜ重力は権力に結びつくのか? 人間は重力に逆らえないからです。ではこの世界で人間を操るにはどうしたらいい? うまく重力運動を操ればよい。
しかし、運動とは常に逃れゆくものであるから、捕らえることは出来ません。ではどうするのか? 運動を止めてしまえばよい。そこで彼らは運動を強制停止させる装置を作ります。それが、監獄です。だからこそスタンダールの作品世界で、監獄は特権的な書き割りになります(ここには人々を見上げさせる玉座や、説教台を備えた修道院も含まれます)。
『ヴァニナ=ヴァニニ』において、密告で捕まったカルボナーリたちが次々と飛び込む井戸は、重力運動を停止させる監獄の反転したイメージです。監獄に捕らえられると人はどうなるのか? それは2、3の例外を除く登場人物が大抵味わうもので、衰弱と消滅、即ち服従です。
そんなスタンダール世界式監獄の一番の傑作として『パルムの僧院』のファルネーゼ塔を挙げられるでしょう。パルムの平原にそびえ立ち、庶民の視線を集め、全てを見渡せる場所。運動も視線も、重力に沿うものは全て集めて、死滅させる場所。「受動的服従」というその名にふさわしい場所。
しかし、ここに陰謀によって閉じこめられた主人公ファブリスは、この世界に潜む、重力=垂直運動とは異質の力を発見します。
それはいわば「水平運動」とでも呼ぶべきものです。
ファブリスは監獄に隣り合った司令官邸の窓から響く鳥の鳴き声を聞き、クレリアを見出して、恋に落ちます。ここで視線は、空に向かうお馴染みの権力のベクトルと九〇度交差する、水平線に沿ったベクトルを描いています。
重力を模倣するかのように空に伸びる二つの塔を、横に貫くかのような視線。これによって、衰弱や服従と全く別のいわば「恋の磁力」が生まれるのです。
この恋の磁力は信じ難いほど甘美で登場人物を陶酔に導き、一つの別の力を引き出します。「速度」です。ファブリスと恋に落ちたクレリアが(彼が毒殺されると思い)塔の階段を駆け上っていくその速度。高さを一瞬で無効化し、監獄が醸成する服従を破壊するその速度こそが、スタンダールの小説において情熱と呼ばれるものです。
受動と衰弱から人を救うものは、速度しか存在しません。その証拠に、サンセヴェリーナ公爵夫人の手引きによってファルネーゼ塔から脱獄したファブリスはより一層衰弱します。なぜなら公爵夫人が脱獄の手段として選んだのは、気球を使って監獄に沿って垂らした縄を伝わらせるという、重力=垂直運動であって、真に監獄から逃げる力ではないからです。
事実、ファブリスを地上で待っているのは、陰謀渦めく宮廷という名のもう一つの監獄です。そしてこの若者は、あの速度の快楽を求めて、クレリアに会うために再び塔に戻ることでしょう。
ここで、この向こう見ずな主人公を『赤と黒』のジュリアン=ソレルと比較すると興味深いでしょう。ファブリスが一貫して垂直=重力運動には無頓着で水平運動を見出す存在とすれば、ジュリアンは、常に垂直運動を模倣することをやめない存在です。
野心家で権力に憧れる彼は、出世の足がかりとしてレナード夫人の2階の寝室に忍び込むとき、地面に垂直に立てられた梯子を使って上ります。同様にマチルドに取り入る場所は、監獄塔のように上に伸びる巨大な書架が張り巡らされた図書室です。そんな彼が最も得意げになる栄光の時が、勲章を貰い、馬上から兵士たちを見下ろす瞬間であるのは言うまでもありません。
そして、そんな彼の権力への野心を破壊するのは、水平運動です。
レナード夫人の告発に逆上したジュリアンは、教会の祈祷に現れた夫人めがけて、水平方向に強烈な速度の銃弾を発砲し、彼女の肩を打ち砕くのです。
この場面が鮮烈なのは、今まで重力運動を愚直に模倣してきた存在が、突如自分の内部に抑えきれない水平運動を見出したかのように、自分自身とそれまでの小説の規則を否定して、激烈な水平運動を産み出すからです。
しかし、結果として馬上の権力の代わりに監獄という権力装置を手にした彼は、すぐにそんな例外など忘れ、支配ー被支配を巡る問いかけを自分自身と繰り返します。あたかも、あり得たはずの重力運動の代わりのように。そして最終的には、山頂の墓所という、究極の高みにある監獄に自らを閉じこめるでしょう。
『パルムの僧院』においては、水平運動と垂直運動は『赤と黒』よりもっと複雑に交叉して組み合わさっています(特にプルーストが絶賛した最終章は、あらゆる速度の組み合わせによる殆ど夢幻的な水平・垂直の分子運動の軌跡とでも言うべき強度を獲得しています)。それは主人公のフランス的な陰鬱さとイタリア的な陽気さの違いとも言えるでしょうし、作家の成熟によるものとも言えるでしょう。
しかし何よりも、それはこの作品の構造に組み込まれているように思えます。スタンダールは垂直運動をかき乱す水平運動が何に由来するかを明確に描いているのです。
それは「ナポレオン」です。
小説の冒頭、ナポレオンに憧れて軍に参加したファブリスは、混沌に満ちた実際の戦場を体験します。視線が滅茶苦茶に交錯し、上官も一兵卒も関係ない、見下ろす/見上げるの権力関係が何度も覆され、自分がいかなる場所にいるかも定かではなくなる混沌に満ちた世界。
それこそが、「ナポレオン」が引き起こしたものであり、重力に囚われない水平運動が産み出される可能性に満ちた世界なのです。
それはあるいはナポレオン法典に書かれるところの「自由」とも置き換えられるかもしれません。この「ナポレオン」を知っていたからこそ、つまり「自由」を知っていたからこそ、ファブリスは、そしてスタンダール(彼自身ナポレオンの心酔者でした)は、垂直=重力運動以外の運動を見出すことができたのです。
私たちを生かし、この大地に縛り付ける重力。その重力の様相を観察しつつ、重力の支配を一瞬でも破壊する運動=自由の軌跡をなぞった言葉を味わうこと。スタンダールの小説を読むことは、この自由の味わいがもたらす快楽を実感することなのです。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のレビューでまたお会いしましょう。
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