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無垢が現代を染める -ウォーホルについてのいくつかの随想

少し前、現代美術家、アンディ=ウォーホルの作品がニュースになったことがありました。環境活動家が、ウォーホルが制作したアートカー『BMW M1』に小麦粉をぶちまけて、逮捕されたというニュースです。


小麦粉をかけられたウォーホルの作品



そのことの是非はここでは問いません。私がこのニュースを聞いて思ったのは、きっと、ウォーホルが生きていたら、大喜びするだろうな、ということです。

『BMW M1』は、普通のBMWに6キログラムの塗料をかけただけ。28分でできたよ。そこに、小麦粉が乗せられることで、より深い意味が加わった芸術作品になったね。大変素晴らしいことだよ。


ウォーホルなら、こんなことを言ったのではと妄想します。そして、この言葉を、何の皮肉もなしに、本心から言えてしまう(ように見える)のが、ウォーホルの「芸術」の、他にはない凄さな気がするのです。




 
アンディ=ウォーホルは、1928年アメリカ生まれ。チェコの移民2世です。大学卒業後、広告のイラストレーターとして活躍します。


アンディ=ウォーホル



1960年頃から、彼はアートの世界に進出するようになります。キャンベル缶のような身近にあるものや、マリリン・モンローのような有名人の肖像を、シルクスクリーンで大量に版画として印刷する。ウォーホル流ポップ・アートの誕生です。

ウォーホル『マリリン』


同時に、ニューヨークに、ファクトリーと呼ばれる、創作工房というか、アーティスト志望者の溜まり場のようなスタジオを作り、イラスト、アルバムジャケット、音楽、映画等、幅広い現代アートに携わります。

スタジオに出入りしていた女優に狙撃されて九死に一生を得たりするも、活動は続け、1987年、58歳で死去しています。




 
ウォーホルの芸術とは一体何なのか。勿論、缶詰を写した絵に技法云々を言っても始まらないので、コンセプトの魅力がほぼ全てと言ってもいいでしょう。では、そのコンセプトとは何か。
 
よく大量生産消費社会の非人間性や空虚さへの風刺とかは言われます。ただ、そういったものは、あくまで受け取る側の問題であって、彼自身はそこまで考えていなかったように思えるのです。


ウォーホル『キャンベルスープ缶』




 
ただ、彼の様々な分野の作品に共通したコンセプトのようなものはあると思います。それは、裏の意味を求めないで、全肯定する、ということです。
 
缶詰をなぜ写したかといえば、そこにあったから、と答えただろうし、なぜモンローやプレスリーのような有名人のポートレートを描くのかと言えば、好きだから、もしくは依頼されたから、ぐらいしか答えないでしょう。
 
また、彼の実験映画は、基本的には「だら撮り」の作品です。6時間もの間、固定カメラで眠る男性を撮った『スリープ』や、二つに分けた分割スクリーンで、全く関係のないお喋りが3時間以上続く『チェルシー・ガールズ』等。
 
そこに意味は? おそらく、それを見てみたかったから、だけではないでしょうか。深い意味なんてない、その瞬間がかけがえのないものかもわからない、別に大切な人の記録を残したかったわけじゃない。
 
ただそれを撮って上映するだけ、それゆえに裏に意味のない現代美術になっています。


ウォーホル映画『スリープ』




 
現代美術とは、コンセプトが重要なのですが、ウォーホルは、そのコンセプトに深い意味をもたせないことで徹底しています。

コンセプトが分かりにくいものとか、幼稚なもの、陳腐な現代美術は沢山あります。しかし、深い意味のないコンセプトを創るのは、案外難しいのではないでしょうか。
 
それはある意味、「無垢」な芸術と言えるかもしれません。「無垢」であるというのは、子供っぽいという意味ではありません。子供というのは、周囲の大人や、陳腐な考えに染まりやすいものです。そういう態度を模倣して、子供っぽく振る舞う大人というのも、現代ではそこそこいます。
 
しかし、「無垢」に振る舞い続けるというのは、文字通り手垢をつけず、どんな主張も漂白して、自分の意志も通さず、所有する思想や色も放棄するということです。
 
ウォーホルの実験映画の上映を見た、ファクトリーに出入りしていたミュージシャンのルー=リードとジョン=ケイルは、上映技師がフィルム缶の順番を間違えて上映していたことを、ウォーホルに報告しました。
 
すると、ウォーホルは笑って「ああ、それはよかった。僕が創った作品よりいい作品になったね」と答えるだけだったと言います。自分の作品ですら、こうした風に、何のこだわりも持たないこと、それが無垢で居続けるということです。



 
そして、興味深いのは、こうしたウォーホルが遺した遺産が、どんどん現在に浸透しているように思えることです。私は時々、今まさに、私たちはウォーホルの時代を生きているのではないか、と思うことがあります。
 
先のリードとケイルが中心になり、ウォーホルがプロデュースしたロックアルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』は、性倒錯を歌ったプリミティブなガレージロックで、今やインディーズ・ロックの古典のような作品です。バナナを描いて「アンディ・ウォーホル」と署名しただけのジャケットのインパクトも凄い。
 


ウォーホルが遺した名言「未来には誰でも15分間は有名人になれるだろう」については、SNSを挙げるだけで十分でしょう。
 
更に、長いこと冷笑されていたウォーホルの映画作品については、現在のゲーム実況配信者やVtuberの動画を見ると、不思議な気分になります。

固定画面で人やキャラがただ喋っている動画を、人気の配信者であれば、同接数千人単位の人間が、3時間も4時間も見ている。まさにこれはウォーホルが夢想した映像体験そのものではないか、と。



 
 
私がウォーホルで好きな肖像写真があります。それは、カルティエの時計、タンクを着け、犬と一緒にいるスタイリッシュな写真です。彼は、時計を着けても、一度もそのねじを巻いたことがなかったと言います。

アンディ=ウォーホル


時を超越した、スタイリッシュな白髪の天使。天使は、人に対して優しくないし残酷でもないけど、強烈なその「無垢」が一つのスタイルとなって、現代に浸透していった。ウォーホルが亡くなって、30年以上経ちますが、彼の影響が深く出てくるのは、これからである、そんな気もしているのです。
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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