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日々を彩る花々の音楽 -デューク・エリントンの魅力

 
 
 
【金曜日は音楽の日】
 
 
特定の場所、特定の時代の音楽だけど、独特過ぎて、時代を超えてしまっている音楽が時折存在します。
 
例えば、バッハの音楽は、「バロック音楽」と分類されつつ、他と比べてかなり変わった音楽です(バロック時代の音楽とは、ヴィヴァルティやヘンデルのように華やかなものであり、通奏低音とフーガで重たいバッハの音楽は、当時から「時代遅れ」と云われていました)。
 
デューク・エリントンの音楽も、ジャンルとしてはスイング・ジャズ、ビックバンドジャズになりますが、とてもその範囲には収まり切れない、全く独自の、今でも魅惑的な音楽です。




デューク・エリントンことエドワード・ケネディ・エリントンは、1899年、ワシントン・DC生まれ。父親は白人医師の執事であり、なんとホワイトハウスにも出入りしていたと言います。


デューク・エリントン


 
当時としてはかなり裕福な家庭だったようで、小さい頃から美術好きで、貴族のような優雅なふるまいで、「デューク(公爵)」というあだ名がつきました。
 
ピアノを習って、1918年には自分のバンドを結成。そして、1927年に、ニューヨークのハーレムにあった白人用の高級クラブ「コットン・クラブ」専属のバンドとなり、大評判となります。
 
1931年にコットン・クラブとの契約を終えると、外国を含む各地へのツアーや、録音を積極的に行います。
 
その後40年以上活躍し、1974年、75歳で亡くなる直前まで現役でツアーをしていました。




デューク・エリントンの音楽は、当初は、言ってみれば高級クラブのBGMであり、ラウンジ・ミュージックでした。

美しい煽情的なダンサーたちが舞台で踊り、エリントン楽団が、エキゾチックな音楽を奏でるというものです。
 
ロックとジャズを妖しく混ぜ合わせたような音楽を創り続けたドクター・ジョンは、少年時代、ストリップ小屋で、デュークの音楽を演奏して覚えたといいますが、確かにそういう実用的な、緩やかで華やかに踊れる側面を、デュークの音楽は持っています。
 
初期の30年代の音楽も、今聞くと結構フレッシュで素晴らしいのですが、最初に聴くのにお薦めしたいのは、多くの人が最高傑作に挙げるであろう『ブラントン・ウェブスター・バンド』です。



1939年~42年のエリントン楽団の録音を集めたもの。

モダンベースの基礎を築き夭逝した天才ベーシストのジミー・ブラントン、実力派でその後長く活躍するサックス奏者ベン・ウェブスター、そして、デュークの片腕となる、作曲家でアレンジャーのビリー・ストレイホーンと、キーマンが揃っての名演集です。
 
初期の瀟洒なムード音楽に筋力がついて、厚みを増し、より華やか、より濃密でキャッチーな魅力あふれる演奏になりました。
 
『ハーレム・エアー・シャフト』や『A列車で行こう』といった、明朗で華やかな曲だけでなく、『ココ』のような妖しいカリブ的なエキゾチックな雰囲気も素晴らしい。

『ソフィスケイテッド・レディ』や『ウォーム・ヴァレー』のような、気怠いセンチメンタルな旋律に緩く楽団全員が絡んでいく様まで、快演が続く素晴らしい作品集です。
 
デュークは、「私のバンドこそが私の楽器である」と公言し、メンバーに沿ったパートを書いていました。その音楽が流行の最先端で、メンバーの質もデューク本人の気力も充実したこの時期が、最盛期と考えていいでしょう。

 



ビッグ・バンドが流行の座から降りても、デュークの音楽は、いい意味で根本的に変わることはありませんでした。

とはいえ、60年代には、後輩のビバップ以降のジャズミュージシャンと個人で共演しています。
 
そこでの演奏は驚くほどアバンギャルド。

1962年の『マネー・ジャングル』では、ベースのチャールズ・ミンガス、ドラムスのマックス・ローチと、尖った表現の異才を怯えさせるほど、フリージャズもかくやというレベルで一番過激にピアノを叩きつけて、自由に泳ぎ回っています。
 
あるいは、ジョン・コルトレーンと共演した1963年のアルバムの一曲目、『イン・ア・センチメンタル・ムード』での、ひらひらと花びらが舞うようなオブリガード。
 
それは、可憐や儚さとは無縁の、武骨で分厚い音。しかも澄んだ美しさを持ち、艶やかな鳥の啼き声のように聞こえてきます。






私がこうした共演盤のピアノ演奏を初めて聴いた時の印象は、なんて野太い音のピアノなんだ、というものでした。
 
もっと強く、大きな音で演奏できるピアニストは、クラシックを含めて、勿論沢山いるでしょう。

しかし、ピアノの音自体が太く、まるで管楽器のようにこちらを包むような肉厚な響きを持って迫ってくる奏者は、なかなかいない気がします。
 
30年代から、踊り子たちのいる喧騒のクラブで、大音響のバンドを従えてきた、叩き上げのパワーのようなものが伝わる、至高の芸と呼ぶべきでしょう。




60年代以降は、自身のビッグ・バンドの方では、うねるような組曲形式の、長大な大作アルバムを何枚も残しています。
 
興味深いのは、1967年の『極東組曲』。日本を含むアジア諸国にバンドツアーした時の印象をまとめたもので、『デリーの青い鳥』、『イスファハーン』、『アドリブ・オン・ニッポン』といった、ワクワクするタイトルが並びます。




 ただ、面白いのは、中身はそれ程アジアっぽいオリエンタリズムを感じさせない音楽だということ。
 
おそらく彼は、外界の変化にヴィヴィッドに対応して自分の芸術を変えるタイプではないのでしょう。

自分の中に確固たる独自の世界があって、それをどうやって外に出すかの方法の方に注力を傾けるタイプ。
 
実際、幻想的なエリントン音楽は、並みのオリエンタルな音楽より遥かにエキゾチックで艶やかな世界ではあります。
 
『極東組曲』は寧ろ、異国の旅がデュークの気分転換と刺激になったことで、彼の気力が充実して、ハリとツヤのある音楽に仕上がったと言うべきなのでしょう。




私が最も好きなのは、1967年の『ザ・ポピュラー・デューク・エリントン』です。
 



往年の名曲を当時のバンドで再演した作品ですが、録音がクリアで聞きやすく、曲(メロディ)がいいため何度も聞きたくなります。
 
バンド・アレンジも熟練のもので、落ち着きの中に彩りがあります。フリー・ジャズや、ビートルズが最先端の時代ですが、モダンで、決して時代遅れには聴こえてきません。
 
微笑を浮かべた陽気さとほんのりと漂う憂愁の間で、陽光に透かしたガラス玉のように表情を変える、この音楽。

最早BGMと呼ぶにはあまりにも美しい、デュークの至高の到達点でしょう。






デュークの音楽の魅力を最高に表した小説と言えば、フランスの作家・トランぺッターのボリス・ヴィアンの1946年の小説『うたかたの日々』があります。



ヒロインの名前がデュークの名曲『クロエ』から採られ、主人公の青年は、デュークの音楽を熱愛しています。作者のヴィアン自身、序文でこう書いています。


大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。

野崎歓訳


目の前にいる人を愛すること。そして現実だけでなく、ここにはない遠い美しい場所の夢も同時に持って、大切な日々を味わって生きること。それこそが、本当の人生なのかもしれません。
 
デューク・エリントンの音楽は、そんな人生を彩る、水中で満開になった色とりどりの花々です。

その艶やかに色を変えて流れる音楽の美を、是非味わっていただければと思います。
 
 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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