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天の使いが駆ける -映画『ペイルライダー』の美しさ


 
 
【木曜日は映画の日】
 
 
「ジャンル映画」というのは大体物語のパターンが決まっています。ホラー映画、ラブコメ映画、一昔前のギャング映画ややくざ映画しかり。
 
パターンが決まっているというのは、みんなが好む、大衆的な作品の条件でしょう。
 
そしてそれゆえに、人々の集合的な無意識を反映して、ある種の神話のように輝いてしまう異様な作品が、時折存在します。
 
クリント・イーストウッド監督・主演の1985年の映画『ペイルライダー』は、西部劇という大衆的なフォーマットを使いながら、削ぎ落された表現により、荒唐無稽でありつつも幽玄な神話の雰囲気も漂わせた、傑作であり怪作です。

 





舞台はゴールドラッシュ時代の渓谷。金鉱を掘り当てるのを夢見て共同体を営む人々が、暮らしています。
 
資本家で鉱山主のラフッドは、近代的な機械を導入して儲けるため、そんな彼らを追い出そうとします。ならず者たちを雇い、何度も彼らの住居を襲撃させています。
 
彼らに愛犬を殺された少女メイガンは、神に自分たちを助けてくれるよう祈ります。
 
そんな折、メイガンの母サラを献身的に支える善良な男ハルは、町でラフッドの手下に囲まれてしまいます。
 
あわや襲われそうになるその瞬間、白馬に乗った謎の男が、手下たちを打ちのめし、難を逃れます。男に、自分たちの家に来るように誘うハル。謎の男は牧師でした。。


『ペイルライダー』


物語は、単純です。イーストウッド演じる「牧師」(プリ―チャー)が、皆の危機を救います。悪い資本家ラフッドは、悪徳保安官ストックバーン一味を雇います。
 
どうやら堅気の人間でなく、ストックバーンと何かの因縁があるらしい「牧師」は、一人で彼らの元に対決に向かいます。その結果がどうなるか、書く必要はないでしょう。




ここでの「牧師」は、最初から神々しいオーラを纏っています。

彼はメイガンの祈りと共に、山から白馬に乗って降りてきます。そして彼女が暗誦する聖書の一節「そして白い馬を見つめた。その騎手の名は死」という言葉と共に現れます(これがタイトルの意味です)。
 
そして、どんな時も動じず、強く、皆に慕われ、メイガンやサラだけでなく、ラフッドに雇われた怪力の大男にも好かれます。

それはイーストウッドだから、という理由だけでないように思えます。人間的な要素が極端に少ない、ある種の守護天使的な存在に見えてきます(実際イーストウッド自身も、復讐の大天使のようなものとインタビューで語っています)。




そして、説明要素がこれでもかと削ぎ落されています。

そもそも「牧師」は何者なのか、ストックバーンと何があったのか、一切語られません。なぜ親切にも人々を助けてくれるのか、それもよく分からない。単にハルや渓谷の人々のが善良だからなのか。
 
説明されないのですが、微かに仄めかされている箇所はあります。例えば、「牧師」の背中に残る六つの銃痕。ストックバーンの手下は六人です。

 

『ペイルライダー』


最も謎な仄めかしは、対決のために出ていく前、サラと二人で居る時に、どこか遠くから響いてくる声でしょう。
 
「プリィ―チャァーー」と長く不気味に引き延ばされたその声を、「牧師」は「過去からの呼び声だ」とだけ言うのですが、誰が何のために発しているのかまったく分からず、「牧師」の神秘性を掻き立てています。




こうした謎が積み重なり、守護天使による最後の「対決」は、最早その神秘の顕現の儀式のようなものになっています。
 
早打ちの名人芸などする必要もない。神出鬼没かつ荒唐無稽な展開は、是非観て確かめていただければと思います。
 
そして、映画のエンドクレジットに重なる映像。あれは完全に、アメリカ西部を超えた、涅槃の光景でしょう。それは天使が出てきた場所を、やはり微かに仄めかすだけで、私たちを取り残していきます。




謎の男が共同体に現れるという物語だけでみれば、これはイーストウッドを有名にした『荒野の用心棒』等のマカロニ・ウエスタンと大差はないです。

往年の西部劇『シェーン』やイーストウッド自身の過去作『荒野のストレンジャー』の実質的なリメイクとも言えます。

しかし、『ペイルライダー』はそれらの作品や、イーストウッドの後の傑作西部劇『許されざる者』ともまた違う、異様な神々しさを纏っています。


『ペイルライダー』


省略と仄めかしの見事な効果により、ここでのイーストウッドは、人間の体臭がしません。彼は、スクリーン上で自分を痛めつける不思議な癖のある映画作家なのですが、そういうものも、あまりない。

そして何より、渓谷の澄んだ空気と、冬の寒さが伝わってくるかのような薄い光。

アメリカの西部の記号も殆どない、どこともわからないそんな場所だからこそ、天使の復讐、もしくは裁きが、まるでお伽噺か神話のような感触を伴うのです。


『ペイルライダー』




ジャンル作品に出てくる裁きの天使で、私が思い浮かぶのが、松平健主演の時代劇テレビドラマ『暴れん坊将軍』(1978~2002年)です。

 

『暴れん坊将軍』


この作品も、例によって例のごとくパターンが決まっています。
 
八代将軍徳川吉宗は城を抜けて、貧乏な旗本の「徳田新之助」に扮して、江戸の町民と交流しています。
 
そこで事件が起きて、吉宗は家臣や庶民の力を借りて、真相を究明。黒幕を追い詰めて、成敗する、というのが毎回の内容です。

 

『暴れん坊将軍』


私が一番好きなのは、「成敗」の殺陣の前。
 
悪人たちを追い詰めたところに、吉宗が現れる。新之助と思い込んでいる悪人相手に向かって、「そちは、余の顔を忘れたか」と真実を告げる瞬間です。
 
庶民は、将軍様の顔を知らないから、新之助の正体を分からない。私利私欲のために大きな悪事をなす悪者は、金銭や権力を持っているから、吉宗に謁見したことがあって、彼の顔が分かる、という上手いドラマの仕掛け。
 
ある時は誇らしげに、ある時は憤怒に燃えたこの瞬間の松平健の凛々しい顔は美しい。
 
お前は私の顔を忘れたのか?」というのは、この世の終わりの最後の審判で、人間を裁く大天使にふさわしい台詞でしょう。それは、「牧師」がストックバーンにかけようとした言葉でもあるはずです。
 
そして、吉宗と分かり、驚愕して最後の悪あがきへと向かう悪人たちの顔は、そのまま、「牧師」を認識したストックバーンの顔でもある。
 
吉宗もまた白馬に乗り、オープニングでは、美しい海岸を疾走します。それは、『ペイルライダー』の最後の涅槃の場所と同様、人間の住処を超越した、天使がこの世に降りてくる場所なのでしょう。


『暴れん坊将軍』


良き庶民のために、正義の裁きを下す天使。それは人々が、良き権力者や、良き宗教家の中にあることを願い、自分たちの善き世界を見守ってくれると感じる存在なのでしょう。
 
天使は私たちの中にいる。そして、優れたエンタメや芸術作品によって、その姿を与えられるということなのかもしれません。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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