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【エッセイ#34】夢の中の夢 -ヒッチコックと『殺しのドレス』の関係

映画はあらゆる芸術の中でも、夢に最も近いと言われます。場所がどうしても限定されてしまう演劇よりも、もっと自由にイメージを変えて、編集という技術で「時」を組み合わせることができるからです。

それゆえに、ある瞬間、過去どこかで見たことがあるのに、現実とは違う恐ろしいイメージが、濃密に現れてしまうこともあります。


 
アルフレッド=ヒッチコックはサスペンス映画の巨匠であり、映画草創期の1910年代のサイレント映画時代から60年代まで活躍した、映画史に残る名監督です。娯楽としてヒットを飛ばしただけでなく、後世に残る作品をいくつも残して、多大な影響を与えています。間違いなく、映画史上の監督トップテンに入る、重要な監督です。

アルフレッド=ヒッチコック

 
2022年の「映画史上のトップ100」を決める映画批評家と映画監督の投票では、『めまい』が2位に入っています。この作品は前回の投票では1位であり、時と愛の妄執を巡る、まさに最高の古典です。
 
そんなヒッチコックに影響を受けた監督で真っ先に名前が挙がるのが、ブライアン=デ・パルマです。ホラー映画『キャリー』や、『ミッション・インポッシブル』の初作の監督をして名を残す彼はまた、熱烈な映画狂であり、ヒッチコックにも様々なオマージュを捧げてきました。
 
彼の作品の中で、ヒッチコックに色々な意味で最も近づいたのが、1980年の『殺しのドレス』なのは間違いありません。いえ、近づくとか、オマージュとかいうレベルをちょっと超えています。ここまで「似すぎている」というのが、ありえないレベルなのです。

ブライアン=デ・パルマ

 
冒頭、美しい金髪の女性が恍惚の表情でシャワーを浴びています。それに見惚れていると、急に背後から男が現れて彼女は襲われます。そして、次のシーンでは、それがその女性の妄想だったと分かります。
 
シャワー室での女性の殺害シーンと言えば、ヒッチコックの『サイコ』が、もはや、映画史のアイコンになるくらい有名です。この冒頭からして、濃密なヒッチコックの匂いが、漂ってきます。

ヒッチコック『サイコ』
映画史上もっとも有名なシャワーシーン

そして、ヒッチコックを好きな人であれば、すぐに反応する場面が続きます。女性が近代美術館を歩くところは、『めまい』でジェームズ=スチュワートが美術館を訪れる場面、そして来る殺害シーンは『サイコ』です。撮り方も完全に似せてきています。あ、あのシーンだ、と指差したくなるくらい。

更に言えば、アンジー=ディキッソンとナンシー=アレンが演じる二人のヒロインは、ヒッチコックのヒロインに典型的な、ブロンドの美女。マイケル=ケイン演じる精神科医は、どことなく『マーニー』のショーン=コネリーを思わせます。
 
おそらくヒッチコックの作品を見ている人ほど、『殺しのドレス』を観終わって、呆然となると思います。何というか、ここまでヒッチコックに似てしまっていいのか、という驚愕と居心地の悪さを味わうことになります。

『殺しのドレス』冒頭
アンジー=ディッキンソン

 
それはどういうことなのか。まず、この作品はヒッチコックの「パロディ」ではないということです。パロディとは、対象の表面を模倣することで、それを半ば戯画的に扱うことです。

デ・パルマもそのような行為は何度かしています。例えば『アンタッチャブル』で、銃撃シーンでの赤ん坊の乳母車(映画『戦艦ポチョムキン』の有名なシーン)を模倣したりしています。

しかし『殺しのドレス』は、その域を超えています。表面の模倣だけでなく、作品の構造自体まで、深く先行作品が染み込んでいるのです。

先の、冒頭から殺害の場面だけではありません。その犯人、犯行の方法が、詳細なネタバレは避けますが、明らかに『サイコ』をなぞっています。しかも、殺害された人物の関係者である男女のカップルが真相に迫る、という筋も『サイコ』のままです。

しかも、それでいてこの作品は、舞台を現在に移した「リメイク」ではありません。そこがある意味、驚異的なところです。

後半のオタク少年と娼婦が組んで真相に迫るのは、明らかに、ヒッチコックとは違う感触を受けます。仮にヒッチコックが蘇ったら、『殺しのドレス』と同じものを撮るか、というと違う気がするのです。

『めまい』
美術館のシーン
『殺しのドレス』
美術館のシーン


その理由を考えるために、ここでもう一度、パロディについて詳しく見たいと思います。そして、同じ「模倣」でも、パロディと対照的な、カリカチュアについても。

パロディで私が思い付くのは、お笑い芸人、ロバート秋山の『クリエイターズ・ファイル』です。秋山が、コシノジュンコのようなデザイナーや、歌手、果てはサッカーの審判に扮して、その「仕事」の現場に密着する、フェイクドキュメンタリーです。

コスプレをして、クリエイターになりきる秋山は、如何にもそれっぼいことを喋ります。しかし内容を聞けば、支離滅裂なことしか言っていません。

面白いのは、彼の外見や喋り方が、クリエイターに似れば似るほど、元ネタと距離が生まれて、違いが際立ってくることです。

元ネタの本質をわざと外して、見た目だけ再現する。そうすることで、ズレのおかしみが醸成される。これがパロディです。その意味で、『クリエイターズ・ファイル』は基本に忠実な、良質なパロディです。



ではもう一つ、カリカチュアについて。これは、タモリの「ピアノの白鍵だけ弾けばジャズピアニストっぼく聞こえる」芸を挙げましょう。(余談ですが、私はこの芸を、哲学者千葉雅也さんのXで知りました)。

タモリがやっていることも、ジャズピアニストの物真似です。しかし、チック=コリアやキース=ジャレットとは全く違うはずなのに、確かにそれっぽく聞こえる瞬間があります。

それは、タモリが、ジャズピアノの本質をしっかりと掴み、それを「白鍵だけ弾く」という独自の手法で、取り出してみせたことによります。似顔絵(カリカチュア)のように、本質をほんの少しデフォルメすることで、かえってその対象に近づくのです。

そして、そこには、ジャズの本質に対する、タモリの愛情と膨大な知識があります。それゆえに、彼は深いところまで、「ジャズっぽく」遊ぶことができます。この「深さ」がカリカチュアの性質です。

誤解を恐れずに言うと、ロバート秋山には、コシノジュンコの作品や、サッカー審判の仕事内容に対する愛情は、それ程ないと思います(だからこそ100以上の職業になりきることができるのでしょう)。寧ろ、クリエイターの気取った見た目や、その職業特有の仕草を、自分で再現することに面白みを感じているように見えます。

勿論、タモリとロバート秋山の、どちらが優れているという話ではありません。どちらも、非常に練られた、素晴らしい芸ですが、方向性は真逆だということです。


そして、『殺しのドレス』はまさに、ヒッチコック作品を、タモリ的にカリカチュアにした映画だと言えます。

デ・パルマは、ヒッチコック作品を愛し尽くし、どっぷりと浸かっていたのでしょう。それで、ヒッチコックの映画の本質を掴んで、タモリの芸のように、自分なりにデフォルメして構築してみせました。

その本質とは何か。端的に言って「殺人と性」の結びつきです。『めまい』や『サイコ』で表面上隠されていた性の主題が、前面に押し出されて、画面を覆い尽くすのです。これは、『殺しのドレス』を見た人なら、同意していただけると思います。

『殺しのドレス』
ナンシー=アレン

その主題のコアを掴み、『サイコ』と『めまい』を忠実になぞる。そうすることで、タモリの芸が、チックやキースと違う質感を持っていたように、デ・パルマ独自の味も出てくるのです。

例えば、『殺しのドレス』には、ヒッチコック特有の女性恐怖症的な側面が、あまりありません。同時に「母性」への信頼が非常に強い。ヒッチコック作品の母親は口うるさく、ヒロインもかなり気が強くて、主人公がいつも逃げ回っているような印象を与えます。

しかし、『殺しのドレス』の女性たちは、どこか人を包み込むような暖かさがあります。これは、デ・パルマ特有のものでしょう。それが、この作品にリメイクやパロディと違う独自性を与えています。そして、それが、先に言った、ヒッチコック本人が蘇ってもこの作品を撮れない理由です。

『殺しのドレス』
左:ナンシー=アレン
右:キース=ゴードン

そして、もう一つ、デ・パルマ独自の要素は、ある種の夢の論理です。この作品は、冒頭から、一人の女性の、妄想のような夢が広がっていくような構造になっています。何度目覚めても醒めないような悪夢が降りかかる感触。その悪夢が、頻発するスローモーションと共に、観客にも襲い掛かるのです。

この部分は『めまい』で見たはずなのに、夢なのかもしれない。『サイコ』にこんなシーンがあったはずなのに、ちょっと歪んでいる。とすれば、それも夢なのかもしれない。そして、ひりつくような性と血の中で溺れながら、何度も目覚めては、また催眠にかかっていくようです。

『サイコ』と『めまい』は、ヒッチコックの作品の中でも、最も悪夢に近い、ある種幻想的な要素の濃い作品です。それをモチーフに、自分なりにデフォルメすることで、デ・パルマは独自の作品を手に入れました。夢のような作品を外側の骨格に持つことで、何度も何度も、夢の中に潜り込むのです。

もしかすると、この映画自体、『サイコ』と『めまい』に取り憑かれたデ・パルマ本人の悪夢を映したものなのかもしれない。そんなことも妄想してしまいます。是非、その二作品を観た後で、『殺しのドレス』を観て、時を超えた、終わらない悪夢の魅惑に浸っていただければと思います。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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