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「誰もが正しい」ことの軽やかさ-名作映画『ゲームの規則』についての随想


 
 
【木曜日は映画の日】
 
 
物語の面白さというのは、二種類あると思っています。一つは、結末が予測できて、それでも人を満足させるもの。
 
『アンナ・カレーニナ』も『ハムレット』も、悲劇と知らされていなくても、大体どういう終わりになるかは、物語の半ばで推測できるでしょう。それでも、最後まで引き込まれる名作です。

いや、分かっているがゆえに、最後まで安心して物語に入り込めると言えるかもしれません。
 
「どんでん返し」とか「意外な結末」と謳われる作品も、この「予想できる終わり」を裏返すことで成り立っている場合が殆どな気がします。逆に言えば、仮に予想できなくても、納得はできる物語なのです。




しかし、もう一つ、物語の筋があまりに複雑に絡まりすぎていて、一体どうなるか全く読めず、しかも、着地した先があまりにも意外過ぎて、納得どころか呆然となってしまうようなタイプの物語があります。
 
物語の型というのは、ある意味出尽くしています。このタイプは決して多くありません。
 
映画で言うと、ジャン・ルノワールの1939年の『ゲームの規則』はこの珍しい「どんな着地になるか分からない」タイプの名作です。
 
しかも、面白いはずなのに、物語もその余韻も複雑すぎて、どう接していいか分からなくなるような、ある種異様な映画です。


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第二次大戦前夜、飛行士のアンドレ・ジュリユーは、大西洋単独飛行を達成して、飛行場に降り立ちます。

親友のオクターヴが迎える中、愛する人クリスチーヌが来ていないことに腹を立てて、ラジオ記者に怒りをぶつけます。
 
一方、その放送を屋敷で聞いていたクリスチーヌこと、ラ・シュネイ侯爵夫人。夫のラ・シュネイ侯爵は、二人の仲に寛大でいようと言い、クリスチーヌは、二人の仲は何もないと言います。
 
そして、侯爵の豪華な別荘で、上流階級の人々を集めて、泊まりの狩猟大会と仮装パーティが開かれることに。
 
そこに、クリスチーヌの親友のオクターヴ、ジュリユー、ラ・シュネイの愛人ジュヌヴィエーヴまで集まることになります。水面下でうごめくそれぞれの思惑。


左:オクターヴ
中央:ジュリユー
右:クリスチーヌ


 
そして、クリスチーヌの小間使いのリゼット、その夫の密猟管理人シュマシェール、突然現れた密猟者マルソーといった、労働者階級の面々のどたばたによってトリガーは引かれ、誰にも止めることができない大騒動が起きるのです。




ラ・シュネイを中心とする、五角関係とも言うべき複雑な関係に、リゼットたち召使の三角関係がぶつかる。とにかくその流麗な語り口に驚嘆する作品です。
 
この二つのロンドを結ぶのは、オクターヴ。クリスチーヌと親密で、リゼットとも何やら訳ありそうなこの太った男を、監督のジャン・ルノワール自身が演じているのが驚異的です。
 
そのまくしたてる生き生きとした喋りと、陽気さから憂鬱まで表現できる幅広さ。しかし、自分で出演する監督は山ほどいますが、自分の映画で熊の着ぐるみを着て、所構わずうろつきまわる人は限られているでしょう。


左:ラ・シュネイ
中央:ジュヌヴィエーヴ
右:オクターヴ


そして、そんな自由なオクターヴと並ぶ、ある意味自由人が、ラ・シュネイ侯爵です。
 
クリスチーヌやジュリユーに寛大なのに、ジュヌヴィエーヴと別れられず、明らかに怪しいマルソーと仲良くなったりと、これ程ノンシャランで魅力的な「ご主人様」はなかなかいません。しかしただ能天気なだけでなく、どこか屈折した思いを妻にも抱えている、そんな複雑な人物です。


左:マルソー
右:ラ・シュネイ



 
そう、この作品に出てくる人物は、通り一遍の単純な性格をしていません。表向きは明るくても、何かしら裏と秘密があり、状況に応じてどんどん感情が変わる。
 
特にクリスチーヌは明らかに不得意なフランス語(演じているノラ・グレゴールは、元女優のオーストリア大公妃でした)の不安定な生っぽい演技で、かなりはらはらするところがあります。

感情に応じてドラマも絡まり合った関係もどんどん変化していきます。
 
そして、前景と後景で同時に別のことが進行する、複雑で流れるような演出が、その変化を見事に捉えていく。何度見てもその精巧な作りに驚きます。



左:クリスチーヌ
中央:オクターヴ
右:ジュヌヴィエーヴ
奥には大騒動を起こす
シュマシェールの姿も見える




この映画を象徴するのは、オートマタと、ウサギ狩りです。

 

狩りの最中の
ジュヌヴィエーヴ


ラ・シュネイの趣味で集めている、機械人形や、豪華な機械式時計。ねじを回して、画面上でけたたましい音をひとりでにあげるその機械は、欲望の歯車が噛み合って、ドタバタに走り回っては転げ回る登場人物たちを象徴しているかのようです。
 
そして、執拗に捉えられる、上流階級の人々のウサギ狩りの様子。ウサギを追い詰めて、銃で仕留めるその冷たい感触が、全てを巻き込む疾風怒濤の狂気の果ての運命を表しているようにも思えます。
 
それは、どんな運命か。




『ゲームの規則』について、ジャン・リュック・ゴダールは、「強制収容所を予言した唯一の映画」と評しました。
 
勿論、ここにはナチスもアウシュヴィッツも出てきません。しかし、ある種の絡まり合った欲望が、暴走し、誰も想像しなかった恐ろしい結末を招くことは、確かにどこか感触が似ているように思えます。
 
実際、この映画のラストで起こること、その時の人物が何を象徴しているかは、多様に解釈にできます。
 
優れた芸術家は、期せずして時代の空気を捉えてしまいますが、この1939年の映画の予想できない結末は、まさに歴史の行く末をも見据えていたと言えるかもしれません。




しかし、『ゲームの規則』は、決して悲劇的なだけの映画ではありません。
 
ラ・シュネイとオクターヴという、物語の中心人物たちの会話が、この映画の魅力を端的に表しています。



【オクターヴ】
僕は逃げ出したいよ
どこか穴の中に隠れていたい
 
【ラ・シュネイ】
何のために?
 
【オクターヴ】
何も見ないで済む
善悪を考える必要がない
誰もが自分を正しいと思っていることが
恐ろしい
 
【ラ・シュネイ】
誰もが正しいのだ
それを率直に表すことさ
私は柵や壁に反対だ


ここに出てくる人物は、誰もが感情が揺れ動きつつ、自分なりの正しさを抱えています。
 
それらを、一方的に断罪するのではなく、全てを等しく見ること。
 
特定の階級の人々を、正義か悪かを決めつけず、それぞれの魅力と愚かさの両面を見つめ、その行く末を捉えていくこと。
 
ここでは、階級の壁を越えて、色々ありつつも、誰もが相手を尊重しています。

そのしなやかで偏見のない、「柵や壁のない」風通しの良い空気感が、何よりの魅力に思えるのです。


左:オクターヴ
右:リゼット


それは、この現代において貴重? いえ、いつの時代においても、とても稀なもののように思えます。
 
自分にとって心地よかったり利益になったりする「多様性」を支持できる人は、いつの世もそれなりにいます。
 
しかし、「誰もが自分を正しいと思っている」ということを、本当に認められて、相手と接することができる人は、昔からそう多くはいません。それはとても困難なことです。




グローバル化が進もうと、SNSが発達しようと、人間の気質は実のところ、国籍や時代で大して変わらない。
 
だからこそ、『ゲームの規則』は、何度でも繰り返し観る価値のある、モダンでパワフルな至高の作品のように思えます。

人間の愚かさや滑稽さとないまぜになった、しなやかさ、闊達さ、変化する面白さをこれ程体験できる作品は、そうそうありません。
 
ラ・シュネイやオクターヴ、そして登場人物たちのその軽やかな身のこなしに、きっと様々な思考を誘発されると思います。それこそが、生きる喜びの一つと言えるのかもしれません。
 



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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