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放浪する若さの喜び -川端康成『伊豆の踊子』の面白さ


【水曜日は文学の日】 


 
 
若さとは、変化できるということです。 そして、固定してしまう前の美しさがある。
 
川端康成の初期作品『伊豆の踊子』は、若さゆえの、そんな不定形な美しさが面白い小説です。






道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、両足が杉の密林を白く染めながら、凄まじい速さで麓から私を追って来た。


二十歳の主人公の私は、戦前のエリート旧制高校生。伊豆の修善寺を旅していると、旅芸人の一行と出会います。
 
旅芸人一座と触れ合いながら、その一座にいる若い踊子の娘と、ごく淡い恋も混じる会話を交わしていきます。




川端康成は1899年生まれ。旧制一高から帝大国文学科を卒業後、菊池寛や横光利一らと交流し、「新感覚派」として活躍します。
 

川端康成


『伊豆の踊子』は、1926年、27歳の初期作品。自身の一高時代の実際の伊豆の旅をモチーフにしています。その後、『禽獣』や『雪国』等、充実した30年代を経て、戦後も『山の音』、『古都』等の名作を発表。1968年に日本人初のノーベル文学賞に輝いています。




川端康成の小説の特徴は、「ものを見て変える」だと思っています。

じっくりと舐め回すように対象を見て、描写する。そして、段々とその視覚から、様々な妄想が溢れてくる。
 
そうしていると、対象も主人公の妄想で彩られて、現実の闇と光に照らされて動き出し、どんどん姿かたちを変えていく。そんな感触です。 
 
人間を見ているというより、大変精巧に出来た人形を見て、真っ白な人形に色を塗りたくっていく様を観察しているような、生々しい実感を伴うのが面白いところ。 
 
『古都』の双子の姉妹、『雪国』の駒子と葉子、『山の音』の貞淑な妻と浮気相手というように、対象が律儀にセットで出てくるところも、人形感が強く出ています。




その意味で川端の文学のエッセンスが最も高濃度に抽出されたのが、『眠れる美女』なのは、多分衆目の一致するところでしょう。 
 
秘密の老人クラブで、睡眠薬で眠らされた若い女性の傍らで一緒に眠る老人男性。美女たちを、視覚で解剖していくことで、様々な妄想や過去の回想が立ち現れて、停滞した時間を彩っていく。
 
川端作品の構造と方法論がむき出しのまま、そのまま物語になったような、スケルトン仕様の機械時計のような逸品です。





しかし、『伊豆の踊り子』は、そうした彼の特色が、実は薄い作品のように思えます。
 
後期の作品群の場合、対象の「人形」を捕食するために、とぐろを巻いているような緊張感がどこか感じられるのですが、『伊豆の踊子』にはそういう感触はあまりなく、主人公と旅芸人たちが、のんびりした感じで喋っているだけです。
 
そして、踊子と私の交流も、ほのぼの微笑ましい。中期以降のような、退廃的なダメ男と、透徹した洞察力を持つ女性たちの、緊張感ある怜悧な会話とは違い、裏がない自然さがある。
 
そして、一際鮮やかなのは、温泉での場面でしょう。
 

仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出してきたかと思うと、脱衣所のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな格好で立ち、両手をいっぱいに伸して何か叫んでいる。手拭いもないまっ裸だ。

それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。


 
踊子が夜の宴席にいるであろうことを想像して苦しい一夜を過ごしていた、その次の朝の情景。踊子の姿が掻き立てる主人公の妄想や欲望を鮮やかに断ち切るこの場面は、その後川端作品にはなかなか見られない爽やかさに満ちています。
 
同じ温泉でも、『雪国』の駒子では決して露わにならない、いわば人形が素の人間に戻ったような喜びを感じさせます。それを長々と引っ張らないゆえに、余計情緒深いのです。




こうした部分だけでなく、題材面でも、その後受け継がれるところと、消えていく部分があります。
 
芸人や船乗り場でのやり取りにも見える、社会の周辺の人々への眼差しは『浅草紅団』にも見られるものですが、徐々にそうした騒々しさや生命力への興味は失われていきます。
 
少女との、肉体関係を伴わない淡い恋物語は、実は結構多く手掛けていた(代筆もある)少女小説にも引き継がれつつ、これも戦後の代表作からは、表面上姿を消す。
 
川端は、この作品は自分が一高時代に放浪した旅を、ほんの少し省略したくらいで、ほとんどそのまま書いたものだと言っています。
 
作家が現実の自分の人生から、取捨選択して自分の芸術に刻み付ける、その端緒が現れており、川端自身、まだ色々なことにアンテナを張りつつ、自分にとっての作品の核になるようなものを探していたようにも感じます。

そうした意味で、彼独自の作風が出来上がる前の初々しさと、そんな時期にしかできない一度きりの奇跡的な透明感があります。彼自身の青春の名作であり、作品自体がある種の心の放浪を捉えていたと言えるのでしょう。




成長すること、成熟することとは、自分の可能性を、一つ一つ失っていくことでもあります。
 
そうして捨てることで、自分自身の本質を掴み、芸術家は自分の作品に落とし込んで、鮮やかな独自の美を築いていく。
 
『伊豆の踊子』にある、ほのぼのとした会話や自然さ、青い感傷を捨てたからこそ、『雪国』の炎や『眠れる美女』の真紅の血が生み出されたと言えるかもしれません。
 
私自身は、彼のそうした美の世界に耽溺できるかというと、ちょっと難しいところがある。でもその分、まだ様々な可能性があったまま、思うままに文章に刻み付けられた『伊豆の踊子』が持つしなやかさに、どこか懐かしさを覚えつつ、親しんでいます。

完成された傑作だけでない、こうした未定型な勢いの作品に触れるのもまた、文学作品の多様な楽しみの一つでしょう。



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