【エッセイ#35】魂を吸う魔物 -バッハ『無伴奏ヴァイオリン』の魅力
以前、メロディが時や場所を超えて変奏されることについて触れましたが、それを奏でる楽器や編曲もまた、音楽にとって重要です。楽器によってその曲の個性そのものが決まる場合もあります。
ヨハン・セバスティアン=バッハの編曲の多彩さは、驚くべきものがあります。大曲『マタイ受難曲』から、チェンバロ(ピアノ)の『平均律クラヴィア』まで、当時のあらゆる楽器で作曲されています。
しかし、同時に、どこか編曲することに無頓着な面もあります。ある楽器のために創られたメロディを、別の楽器曲のために転用することがかなりあります。
勿論、作曲家ならそういうことはあるでしょう。しかし、遺作となった『フーガの技法』では、楽譜のメロディだけあって、楽器の指定が一切ありません。
色々と音楽学者も考察していて、私が好きなグスタフ=レオンハルトは、チェンバロによる名演を残しています。しかし、これは単に忘れたということではなく、指定できないということ、そしてどのような楽器でも弾いても自分の音楽の本質は変わらない、という態度でしょう。
しかし、本人が無頓着であっても、楽器による曲ごとの特性の違いはあります。それは、『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』を聴くとはっきり分かります。
一人のヴァイオリン奏者によってのみ演奏されるこの作品は、バッハの自筆譜が残っており、ヴァイオリンを想定したものでした。作品自体は素晴らしいもので、多くのヴァイオリニストの教典になっている曲です。
私も名手シェリンクの演奏で楽しんで聴いていましたが、その認識を大きく変える出来事がありました。バッハが生きた時代の古楽器を使った、ジギスヴァルト=クイケンの演奏を聴いたときです。
クイケンが弾いた古楽器のバロック・ヴァイオリンは、現代のヴァイオリンよりもピッチが低く、どこか籠ったような響きがあります。
演奏は、その響きを十分に活かしながら、決して技巧に走らず、ゆったり、しかしテンポはきびきびと進みます。
聴いているうちに、その単色の世界が、どんどん膨らんでいきます。カラフルに色づくのではありません。単色のまま濃密になって、周囲の空気を変えてえていくのです。
特に、真夜中、全てが静まり返った中で聞くと、部屋が徐々に湿気を帯びて琥珀色に染まっていくかのような、異様な空気感を味わいます。まるで、大気そのものが、大粒の涙を流しているようです。
なぜこのように感じたか、というと、ヴァイオリンの楽器の特性に因ると思います。
ヴァイオリンは弦楽器です。弓毛によって、金属の弦を擦ることによって、音が出ます。つまり、管楽器(オルガンを含む)のように、空気を流し続けることで、振動させる楽器ではありません。また、ピアノのように、鉄線を叩く鍵盤楽器(一種の打楽器)でもありません。
二つの物体をぶつけ続けて、擦り続けなければ音は出ません。そこには、摩擦によって、物体が壊れていく過程が含まれています(事実、弓も弦ももかなりの消耗品です)。
それは、空気の振動を使う管楽器よりも持続は短いですが、打楽器よりも遥かに尾を引いて、旋律を彩ります。その特性が、バロック・ヴァイオリンだと、現代のモダン・ヴァイオリンより分かりやすく表れます。
私が感じた、大気が徐々に膨らんで行くような感覚は、このものが壊れる際の、張り裂けるような音が、拡大したことによる気がするのです。そこに、バッハの、冷徹で幾何学的な文様が描かれることで、その引き裂く音がバリバリと拡大し、膨らんでいく。それが部屋の空気感を変えてしまう。そんな気がしたのです。
実際、ヴァイオリンは、最も泣き声に近い楽器だと思います。チェロのように肉声に近いのではなく、金切り声に近い、非常にコントロールの難しい楽器です。それゆえに、下手をすると、ただの叫び声になりますが、上手く高音と低音を交えれば、人の声とはかけ離れた、透徹した音になります。
そして、興味深いのは、こんな感想を、ごく普通のヴァイオリン演奏を聴いた時には、全く感じなかったことです。ひょっとすると、モダン・ヴァイオリンというのは、本来ヴァイオリンという楽器が持っていた、時には耳障りで、うまくすれば大気そのものを変えられる、魔性のようなものを、耳に心地よい音色に変えた楽器だったのかもしれません。
それは、19世紀以降の、産業革命によって、科学と合理性が台頭して、人々が進歩を信じるようになった時代が捨てた、魔術のような何かなのかもしれません。
そして、この演奏を夜一人で聴いていると、すすり泣きのような湿った旋律に溺れて、魂が吸われて、宙に溶けだしていくような気すら起こります。しかし、音楽とは本来そのような魔力を持ったものでした。
古代の呪術や儀式での音楽とは、目に見えないこの世の外のものの力を、呼び寄せようとするものだったはずです。
この作品は、バッハの一人目の妻が亡くなった直後に創られています。以前書いたように、彼は決して個人的な事情で曲を創らない、職人です。しかし、どこかに哀しみの旋律が宿り、ヴァイオリンの音色によって増幅される。おそらく、彼はこの作品については、完璧に楽器の特性を理解し、旋律を割り当てたのでしょう。それによって、魂を大気に吸い寄せる、魔の力を持つ音楽が出来上がったのです。
私にとっては、おそらくバッハの中で最もヘヴィな一曲。気軽に聞くことはなかなかできませんが、様々な名手が録音を残しているので、是非、皆さんも録音や実演で触れてみてほしいと思います。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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