見出し画像

【エッセイ#15】涙が歌う ―バッハの旋律と、妻を失った2人の男の話

 
ヨハン・セバスティアン=バッハの特長を何個か考えると、例えばフーガの複雑さや、器楽曲の豊富さに思い当たります。ですが、彼が偉大なのはそうした構築力だけではありません。

まず、彼のメロディの美しさ。メロディで多くの人を感動させることは、偉大な音楽家の一つの条件です。印象的で有名な『トッカータとフーガ』や、『主よ人の喜びよ』、グレン=グールドの演奏で有名な『ゴルトベルグ変奏曲』の主題が好きな人もいるでしょう。
 
その中でも珠玉のメロディと言えば、オルガン・コラールの『われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ(BWV639)』を挙げる人も多いのではないでしょうか。オルガンだけでなく、ピアノを始め、様々な器楽に替えられて(トランスクリプション)演奏されています。


 
最初は敬虔な雰囲気で始まります。何か今にも崩れ落ちそうな音の建造物を必死に組み上げるような、哀しみと終末感のメロディ。トレモロでその旋律が少し途切れます。
 
そして、この曲で多くの人が胸を打たれるのは、その次の主題、旋律がゆったりと昇りつめて、降りていく箇所ではないでしょうか。単純なメロディの上昇と下降なのに、まるで熱いものがこみあげて、涙が零れ落ちていくような部分。この部分こそ、この曲の印象を決定づけている箇所でしょう。これほど、シンプルに終末感を表現できる曲は稀です。
 
その後も上り詰めたり、ダウナーになったり、安らぎを感じさせる箇所もありながら、ゆったりうねるようなこの作品は、それでもこの終末感を失わずに進みます。そして、それが絶望や黙示録的な破滅や、緊張感ではなく、消えていくような無常感を漂わせているのが、美しいのです。



この曲が印象的に使われている映画と言えば、ロシアのアンドレイ=タルコフスキーによる映画『惑星ソラリス』でしょう。瞑想的にゆったり進む傑作映画のなかで、まるで主題歌のように何度もこの曲のオルガンが響いてきます。


『惑星ソラリス』はポーランドのSF小説家スタニラフス=レムの小説を原作にしたSF映画です。ソラリスという未知の惑星を監視する閑散とした宇宙ステーションに降り立った科学者クリスは、かつて自殺した妻ハリーと同じ姿をした女性と会います。

その女性は、あの時の妻と同じなのに、昔の記憶はない。同僚によると、それは、ソラリスが人の記憶を読み取って、送り込んできた思念体であり、一種の使者だというのです。妻と同じ姿の女性と愛し合いつつ、クリスは苦悩します。



ハリーも自分が思念体であることを受け入れ始めてきた、物語の中盤。二人が、ステーション内の図書室にいると、ステーションで重力が解放される時間が来ます(普段は地上と同じように重力がかかっているので、普通に歩ける、という設定です)。

図書室内の本がふわふわ浮かびます。クリスがそっとロウソクの燭台から手を離すと、燭台はゆっくりと画面を横切り、天井のシャンデリアに触れて、微かに音を立てて揺れます。

そしてハリーもクリスも緩やかに宙に浮かび、ゆっくり回転しながら、抱き合う。その時に、あの『われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ』の旋律が流れてくるのです。

これは瞠目すべき、素晴らしく美しい瞬間です。なぜ美しいのか。なぜタルコフスキーの映画の中でも、強く心を打つ場面なのか。それは多分、曲の無情感と静かな終末感にこのドラマが共鳴しているからでしょう。



クリスが抱きしめているのは、妻でないことは分かっているのに、妻にあまりにも似た存在です。そして、かつて諍いで自殺してしまった妻のように、自分にとって手の負えない存在ではない(クリスの頭の中に残っている思念を、ソラリスが実体化したのですから)。そこがどこか後ろめたくもあり、愛おしくもある。
 
そして同時に、全く同じ容貌だからこそ、抱きしめれば抱きしめるほど、かつての妻が絶対に戻らないことを、ひしひしと感じてしまう。
 
決して戻らない存在の似姿に抱きしめられる時間とは、まさに現実ではない、夢の世界。あるいは、人生と現実が終わった後の、彼岸のような世界でしょう。それは、シャンデリアが微かに震えるほどの、吹けば飛ぶような、人を縛り付ける重力が消えてしまった世界です。
 
そして、その彼岸の情景の終末感に、バッハの旋律は嵌っています。無常でもあり、痛みでもある。この曲は正式には、コラール・プレリュードと言って、教会の礼拝に使われる作品です。しかし、これは大きな教会で皆と一緒に聞く類の音楽ではありません。自分一人で内省的に、自分の中の彼岸を見つめるための音楽と言えます。
 
と同時にこの曲は、この映画で使われることで、ある一つの共鳴も導きます。なぜなら、この曲を作った男もまた、妻がもう戻らないという思いを味わっているからです。


 
ヨハン・セバスティアン=バッハの最初の妻、マリア・バルバラは、バッハが35歳の時に急死しています。同年齢で22歳の時に結婚した二人の仲がどのようなものだったか、伝える資料はあまりありません。しかし、二人の間には、7人の子供が生まれ、4人成人していることからも、仲睦まじかったと伺えます。
 
マリア・バルバラの死から一年半後、バッハは16歳年下のアンナ・マグダレーナを妻に迎えます。彼女との間にはなんと13人の子供が生まれて、6人が成人することになります。
 
この二人の妻について、容貌や性格を伝える資料は殆ど残っていません。しかし、二人とも素晴らしいソプラノ歌手であり、音楽的な素養は高かったと言われています。バッハは、亡くなった妻と同じくらい美しい声で、自分の作った曲を歌える女性を、家庭に迎えたことになります。まるで、自分の思念によって、亡くなった妻と同じ声で喋る存在を手に入れた、クリスのように。



とはいえ、実のところ、『われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ』は、バッハが28~30歳頃の作品と言われているので、別に、マリア・バルバラを思い出して書いた曲ではありません。
 
というより、以前テレマンの項でも書いたとおり、バロック時代の音楽家とは、自分の感情の赴くままに作曲するのではなく、あくまで依頼主のパトロンや教会のために、書いていました。バッハも、ケーテンの宮廷楽長や、ライプツィヒの教会の楽長も務めていますから、自分の家庭の事情に基づいた曲を、教会音楽という形で創作することはありません。
 
寧ろ、こう考えるべきでしょう。若き日のバッハが創造した彼岸の世界と言うのは、彼自身が後々体験するほどの、普遍性を持ちえた作品だったと。
 
人は、自分にとって大切な存在を失う瞬間をいつか迎えます。その時の思い、痛み、世界が終わってしまったような感覚を体験させるのは、ごく限られた芸術だけです。そして、それは、決して実体験に基づくものでなくても、完成させられるのでしょう。
 
一つのメロディを巡って、妻を永久に失ってしまった、二人の男がいます。彼らの悲しみを言葉もなく、雄弁に歌い上げるメロディ。それはまた、彼らが流したかもしれない涙が、彼らの口から洩れる言葉の代わりに歌う、一つの愛と世界の終わりへの哀歌なのかもしれません。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、マガジン「エッセイ」「レビュー・批評」「雑記・他」からご覧いただけます。

楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?