【エッセイ#6】召しませ、古の宮廷料理 ―テレマン『ターフェルムジーク』
音楽は真剣に聴き込むこともできれば、単なるBGMとして流すこともできるというのは、よく言われることです。しかし、BGMとして創られた音楽でも、ある瞬間、偶然にも、忘れ難い美しさを持った珠玉の音楽に変わることもあります。
バロック音楽の中でも、テレマンはとにかく曲の多さで有名です。よくぞまあ、こんなに沢山曲が創れたと思うと同時に、立て続けに聞いているとどれも同じに聞こえてくることでは、『四季』で有名なヴィヴァルティと双璧をなすでしょう。
「彼は1000曲作ったのではなく、同じ曲を1000回作ったのだ」といった意味の悪口を、ヴィヴァルティについて言った人がいたと思いますが、テレマンに対しても同じ言葉で形容することができるでしょう。ヴィヴァルティのようなヴァイオリンソロの名人芸(作曲家本人がヴァイオリンの名手でした)や、やり過ぎと思えるくらいの哀愁漂うメロディがない分、テレマンの方が余計全部同じ作品に聞こえてくるとすら言えます。
バロック音楽は言ってしまえば、「王侯が食事や狩りをする時のBGM」です。音楽評論家の岡田暁生氏は著書『クラシック音楽とは何か』の中で、バッハのイギリス組曲やフランス組曲の区別がつかないといった意味のことを書いていて、全く同感なのですが、それはひとえに、作曲家自身が区別する必要性を感じなかったからに他なりません。
乱暴に言うと、貴族や王、或いは神のために、彼らの無聊を慰めて、彼らの過ごす時を飾り立てて輝かせるジュエリーなのですから、曲ごとの個性なんて必要ないわけですね。
『ターフェルムジーク』もタイトルからして「食卓の音楽」なのですから、推して図るべし。おそらく、この曲をお抱えの楽団に演奏させて、晩餐会や客人をもてなす饗宴を開いた王や貴族は、実際にいたことでしょう。
私は名盤の誉れ高い、アウグスト=ヴェンツィンガー指揮、バーゼル・スコラ・カントルムによるアルヒーフ盤(1965年)を聞きました。心地よい曲だと思うし、時々キャッチーな部分もあるものの、さらさらと頭の中を流れていって、段々と能動的に聞こうとする気が失せてきます。何せ、第1集から第3集の全曲演奏完全版でトータル5時間近くあるのですから。
しかし、作業用のBGMとして流していると、ある瞬間、突如として美しいメロディが耳を捕らえ、手が止まってしまいました。
今までの華やかな雰囲気が静まり、小川のせせらぎのようにひそやかな弦楽器の合奏が溢れてきます。口笛で吹けるような素朴なメロディなのに、しっとりとして気品があり、硬質な弦の響きでゆったり展開していく様は、舞踏会で優雅に踊る貴婦人の光沢のあるドレスが、踊りと共に流麗に舞ってひらめくかのよう。それも、シャーベットを食べた時のように、甘い感触を残してすぐに消えてしまう。
まるで、遠い昔に、初めての舞踏会で緊張してきょろきょろ見回していると、ひときわ美しい貴婦人に目を奪われて、大人の世界というのはこんなにも美しいのか、と憧れを抱いた頃を、老年になって思い返しているような、そんな儚さと美しさに彩られた短い曲。本当にすぐに過ぎてしまい、また華やかなバロック音楽に戻ってしまうのですが、この一曲だけでも、聞けて良かった、と私は強く感じました。
その曲は第三集の第1曲「変ロ長調序曲」の第2楽章。最初から数えて47曲目。『Bergerie』、つまり、牧歌、羊飼いの歌というタイトルがついています。ヴァトーやブーシェが描いた田園や森で羊飼いの少年少女が戯れているロココ絵画のようなイメージを思い浮かべて、テレマンが名付けたのでしょう。そして、その精神は見事に捉えられていると思います。ロココは華やかに見えて、やがて来るフランス革命の動乱で消えてしまう儚い美しさや優雅さを持っていたのですから。
この『牧歌』は「少し活き活きと」という副題がついていることもあり、近年は特に、作曲者が生きた当時の楽器やピッチを再現する古楽系の演奏で、威勢よく演奏される場合もあるようです。古楽系でも、ニコラウス=アーノンクールの演奏などは、副題はどこにいったのかと思うほど驚くほど遅いもので、いかにもアーノンクールらしく、ヴェンツィンガー盤の逆を行こうとしている意図が見え隠れしています。
私は厚塗りの壮麗なオーケストラ演奏よりも古楽演奏が好きなのですが、この曲に関しては、ヴェンツィンガー盤を強く推したいです。『牧歌』に代表される華やかさの陰の儚さや淋しさを、演奏全体に仄かに隠し持っている。まさにロココやバロックの時代の精神を体現しているからです。過去の時代の楽器を使って同じ楽譜で同じテンポで演奏することだけで、過去を再現できるわけではありません。
そう、それはこうした華やかな音楽が流れた宮廷の饗宴というもの自体にも言えます。今同じ食事や演奏を再現しても、きっと現代の人間からすれば、貧相で退屈なものなのでしょう。しかし、現代程の娯楽も、あらゆる場所に溢れる音楽もなく、食事も普段は雑穀ばかりで、厳しい暑さや寒さの自然を耐え忍んで生きていた当時の人々にとって、貴族や王の宮廷に招かれて開かれた饗宴は、日常を超えた、夢のような世界だったのでしょう。
そんな中で、華やかな『ターフェルムジーク』を聞きながら、珍しい海や山の幸、甘い果物に舌鼓を打って、他愛もないお喋りに興じていると、不意に忘れ難い哀愁に満ちたメロディに心奪われ、その一夜の最高の想い出と共に、心に刻まれる。そんな情景が浮かびます。
こうした意味で、このテレマンの名作は、正しく『ターフェルムジーク』、「食卓のための音楽」だと思えます。これは、宮廷を再現するのではなく、宮廷に招かれた時の感情と感覚を、宮廷以外の場所でも再現してくれる芸術であり、想像で楽しむ極上の宮廷料理のフルコースなのです。
そして、コース料理は、全てが均一に美味しいものである必要はありません。忘れ難い、たった一つの甘味、出会い、眼差し、メロディ。こうしたもので、人生が何よりも輝くことを、テレマンやヴィヴァルディは知っていたのでしょう。そうした人生が煌めく瞬間を掴んでいくことが、本当の意味で生きるということなのでしょう。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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