きらめきと抒情の記録 -チェーホフの短編の美しさ
【水曜日は文学の日】
短編には長篇にはない良さがあります。短いからこそ、人生を圧縮して集中して味わうことができる。
『桜の園』等の戯曲でも名高いロシアの作家、チェーホフの短編は、そんな短編小説の醍醐味を堪能できる逸品ぞろいです。
アントン・パーヴロヴィッチ・チェーホフは、1860年ロシア生まれ。モスクワ大学で医学を学びながら、雑誌に短編を発表して生計を立てます。大学を卒業後、医師として働きつつ、本格的な戯曲も書いて、旺盛な文学活動を広げています。
『決闘』や『六号病室』等、ロシアの当時を描く名作を残しつつ、サハリンにも旅行して、紀行文を残し、戯曲『かもめ』を上演したりしています。
元々結核を患っていたこともあり、1897年に大量に喀血して倒れた後は、より人生をしみじみと感じさせる短編になり、名作『かわいい女』や『犬を連れた奥さん』を残し、四大戯曲と言われるものの残り、『ワーリャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』を上演しています。
病状が悪化し、1904年に死去。44歳の若さでした。
チェーホフの短編の魅力は、透徹した心理描写とユーモアの同居です。
例えば『決闘』での、決闘前のじりじりとした描写、『六号病室』での、諦めの心理によって精神病棟に幽閉されるまでの、こちらを巻き込むような心理描写の迫力。
この頂点として『退屈な話』の、老医学部教授の、人生への寂しい思いの一人語りがあります。
公的な栄誉に包まれながら、理想とは程遠い暮らし。退屈な周囲への苛立ち、未来がもうない自分への無力感、そんな彼のほんのわずかな交流である三流女優の姪っ子との、人生に疲れ切った対話。
こうした劇的な外面の事件がない人々の生活を、語りの面白さで読ませてしまうのは、彼がまさに生来の短編小説家である証左でしょう。それにしても、『退屈な話』を書いた時、まだ作者は29歳だったわけで、その老成ぶりは凄絶なものがあります。
と同時に、チェーホフの作品には抒情とユーモアが漂っています。
『曠野』での、旅する少年たちを包むようなステップの大地の瑞々しい描写、『中二階のある家』での秋の情景と少女との交流の美しさは、チェーホフが、本来良い意味でのセンチメンタルさを持っていることを示しているでしょう。
それと対照的な、ちょっと人生を斜から見る、愚かな人々への距離を持った眼差し。
『かわいい女』での、結婚を繰り返してその度に夫に染まる無邪気な女性、『イオーヌイチ』での、たった一度の初々しい恋以外に人生の興味を失い、太って仕事に明け暮れる医師等。
ある意味救いようもなく、それでも生きていく市井の人々に対して、風刺的でありつつもどこか暖かい眼差しがあります。
ちなみに、トルストイは『かわいい女』を絶賛し、「昔はこんな風に無垢な女性がいたものだ」というような感想を残しています。
しかし、実際の短編を読めば、自分の意見がなく、ただ周りに流されて、それゆえに無垢なように周囲から「見えてしまう」女性に対して、全く熱狂することなく淡々と描写するチェーホフの立場は明らかなわけで、二人の巨匠の資質の違いのような物が見られて興味深いです。
こうしたチェーホフの短編の特徴は、彼が医者であったことをよく表しています。どんな善人も悪人も等しく見て、心理を解剖していくような、冷静な手つき。
医学を学んだ文学者と言えば、チェーホフ以外に、シュニッツラー、森鷗外、藤枝静男、渡辺淳一等がいますが、いずれも、濃密なロマンと裏腹に、突き放した怜悧さを備えた作家なのは、やはり人間を常に「物質」として見る意識があるのではと感じてしまいます。
そして、チェーホフの場合、駆け出しの頃に大量にユーモア短編やショートショートを描いていた経験も、確実に彼の作風に影響を与えているでしょう。
とにかくぐいぐい読めて、必ずオチをつけて、読者を満足させる。そのためには、必ず人間に関わるドラマであること。読者サービスと、そこを離れた作品の完成度とのバランスをとれる態度。数十年飛ぶ短編があっても、不自然さのない時間処理です。
『退屈な話』は、編集者から筋がないと思われることを危惧され、題名を変えることを提案されますが、チェーホフはどちらも拒んでいます。
そうした編集者とのやり取りの中で自分の書きたいものを固めていくという意味で、19世紀末のロシア・ロマノフ王朝末期の、爛熟した出版文化無しには考えられない作家でもあります。
以前出ていた(多分図書館等では今も読める)ちくま文庫版のチェーホフ全集では、全12巻の内8巻が小説、そのうち最初の4巻が初期のショート小説でした。
もううろ覚えですが、お芝居がはねた後の女の子の独白だとか、少女に恋する魚の話だとか、結構印象的な話もあり、同じ主題を何度も書き直してブラッシュアップしていったのが分かる短編もあります。
そんな彼が喀血後に残した晩年の短編は、風刺が後退し、抒情と人物への落ち着いた眼差し、そして人生へのしみじみとした味わいが溢れる作品となりました。
『かわいい女』、『イオーヌイチ』、『谷間』といった、日々のときめきや光、人間の愚かさを丁寧に扱う手つき。
とりわけ、『犬を連れた奥さん』は、ごくありきたりな妻子持ちの男と人妻の不倫の話なのに、ヤルタの美しい海、二人で食べるスイカ等、細部がまばゆく煌めき、はかない人間の存在も感じさせる。まさに人生の美しさが横溢している短編です。
そして、遺作『いいなづけ』は、ヒロインのナージャを通して、人生への不安と渇望に満ちた若い頃から、幻滅、その先の希望までを描く、枯れた味わいもありつつ、透明な水晶を通して時を見つめているような、美しい作品になりました。
それはまだ50歳にもならなくても、酸いも甘いも知り尽くし、恐らく自分の死期を悟った作家の、それでも書かずにいられない人生へのささやかな賛歌と言えるかもしれません。
私にとって理想的な短編は、と誰かに聞かれたら、チェーホフの晩年の短編小説と答える気がします。
勿論、他の作家にも素晴らしい作品は沢山あります。でも、私は中学生の時、チェーホフの短編を読んで、確かにここには本当の人生がある、こんな短い紙幅で、人生の全てを書けるのだと感激しました。
その頃の私は、まだ恋をしたことも働いたこともない、ちっぽけな中学生の男の子でした。でも、確かに人生は美しい、生きるに値すると心から思わせてくれた。チェーホフの短編はそんな作品です。
そして、それが間違っていないことを確認するために、私は生きている。そんな風に、チェーホフの作品は私にとって大切なものなのです。
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