見出し画像

自己表現(自我)よりも大切なこと。

タイトル通り。
以上!!

と終わりたいくらいですが、少し補足を。独り言にお付き合いくださいませ。

2022年9月の展覧会以降、ぽっかりと生まれた空白が、なんなのかをずっと考えてきました。
自己表現をずっと追求してきた画家人生だったと言えます。その対極にあるのが、他者表現というものでしょうか。デザインなど社会表現よりももっとミニマムで個人的な、相手の物語を紡ぎ出す絵画。
似顔絵だったり、絵画教室だったり、天国の家族を描くシリーズだったり。

自己表現、内面世界。自我。
世の中にはたくさん、それはもうたくさんの表現家が自己を追求し、自分だけの世界を修練して編み出しています。僕の師匠も、友達も、パートナーも・・。彼らに心から憧れながら、僕は何か大きなモノを諦め続けてきたような気がします。
手放した、といえば今風かもしれませんが、もっと脆弱な心からきているのでしょう。

子育てにおいて。
人生のほとんどを注いできました。そのことには一片の悔いもありません。
しかし、天を見上げて、遠藤周作の「沈黙」の一節を思い出すのです。

人間がこんなに哀しいのに
主よ 海があまりに碧いのです

どこまでも哀しい。
自己表現を失って、空虚でどうしようもない気持ちが消えない。どうしても埋まらない。
しかし、なぜこんなにも子供たちの笑顔が美しく、心が震えるのだろうか。

僕は、最近ようやっと答えを出しました。

自己表現よりも大切なことがある。
表現はただの手段でしかなくて、肝心なのは、その手段でどうやって、その人・その社会に届く「祈りの形」に変えていくか。

僕にとって自己表現とは「自分のやりたいこと」だった。しかし「自分に与えられた役割」というものが存在して、それは自分の感覚を超えたものだと思います。

そもそも、自分の時間がない。

それに尽きます。だから諦めないといけないのです。断末魔の叫びを聞きながら。

その上で、本当に深い満足とは、自分の心の井戸を通り抜けた先の、深海につながる静かな場所にあるのではないかと感じるのです。

そう思えた時に、僕は1枚の絵画から自由になれたような気がしました。そうして、それぞれに役割があり、全うしていくことしかないと思えました。
ハチドリが小さなクチバシで、山火事を消そうと、湖を往復して雫を運ぶように。みんな諦めても、諦められないものがある。自分のことは諦めても、祈ることだけは諦められないのはなぜでしょう。

やれることをやる。それに集中すること。そう折り合いをつける。
先日の日記「エレーナとインコ」の絵本のように、信じ抜くこと。心の雑念を消し、集中すること。それしかないのだと。

現在23:19。
息子が寝付いたのも、22:00過ぎて。アトリエの大きなキャンバスと向き合い、腰が抜けるような恐怖に襲われながら。
もう無理だ、もう無理だ、という声。何が無理なんだ?という声。とにかく描けばいいという声。書きたくもない、くだらないという声。どうしようもないと諦める声。

自分一人では何もできない・・と嘆く声。

それでも、もっと大切なことのために、筆を握ろうと思っています。

おしまい。

よろしければサポートお願いいいたします。こちらのサポートは、画家としての活動や創作の源として活用させていただきます。応援よろしくお願い致します。