アートと生きた、女性の戦士たち。ローマ編 n.6。 パルマの進撃。
展示会とスキャンダル
1954年 1800年代のアメリカ画家展。アメリカ大使館が招待される。
1959年 ルコルビジェ展
1955年 テレビ放映開始
パルマ・ブカレッリが「イタリアの現代アート」の番組を担当。
新しい展示会が開催されるたびに、館長自身がテレビを観ている人に向けて、代表作品を詳細に案内している。羨ましい限りである。
1958年 ジャクソン・ポロック展
体全体で刷毛で色を飛ばしながら製作する、アクション・ペインティングと呼ばれる彼の絵は、芸術界に衝撃を与える。保守的なイタリア、特に首都ローマにおいて、ポロック展を開催することは、非常に大胆な選択だった。
いまでこそ、ポロックはアメリカを代表するアーティストだが、当時はまだ世に知られていず、批判する者も多数いた。余談だが、ポロックの絵画からヒントを得たシェフも多く、料理の演出にポロックの色やタッチが使われていることもある。
1959年 アルベルト・ブッリ展
みなさんは、なにを感じましたか?
いったいどこがアートなのか、わからない。
当時の人たちも、みんな同じ思いだったと思います。
イタリア語で Grande Sacco ずた袋と呼ばれるアート。
薄汚く、臭いキャンバス生地。
プラスチックに穴が空いていて、一部は焦げている。
ブッリは薬剤師となり、第二次世界大戦で従軍するが、アメリカの収容所に収監される。イタリアに戻ったあとは、ローマでアート活動を開始する。
このキャンバスや穴のあいたプラスチックは、収容所での経験を表現している作品であるとも取れる。
あまりにも抽象すぎる作品は賛否両論を呼び、果てには、この汚いキャンバス生地を展示するのに、どれだけ費用がかかったのか、国会で問題になる。ひとつの美術館が、国会で話し合われるほど大問題になるのは、前代未聞のことである。
現代アートの表現のひとつであると正評価すると同時に、物議を醸し出すことで、新聞に載り、テレビでも、街角でも話題に上り、人々が討論し合う。ブカレッリ館長は、彼女の美術館の広告にもなり得ることをわかっていたはずだ。
国家予算の無駄遣い
ブカレッリ館長は、またも世間を騒がせる。
国家予算9億円という大金を投じて作品を購入したのだ。
使いすぎ、やりすぎ、無駄使いと、新聞で取り沙汰され、またしても国会で議論される。そこで館長はテレビ出演して、このように回答している。
エレガントに着こなし、凛とした、若干うんざりしたような態度で、はっきりと自分の考えを言葉に表す、ブカレッリ・イズム、健在。
ようやく波が穏やかになろうとしてたときに、新しい展示会が開催される。
最大のスキャンダル展示
1971年。ピエロマンゾーニ展「Merda dell'artista 芸術家の糞』
正味重量 30 グラム。自然保存。1961年5月製造。
この缶詰の価格は、当時の30グラムの金の相場と同等の価値が付けられている。
この展示を開催した勇気に賞賛。
展示を開催して間もなく、キリスト教民主党から、教育大臣に対して議会質問が行われる。
このような展示を許可するとは何事だ。
いったい美術館をなんだと考えているのか。
芸術家のXXのために、予算を使ったのか。
新聞各紙はこの論争に身を投じ、最初は作品の芸術的価値を討論していたが、ほどなくして国立近代美術館パルマ・ブカレッリ館長に対する攻撃に変わった。
パルマ・ブカレッリが、国立現代美術館の館長の座を剥奪されるかもしれない。
知識人はブカレッリ館長を擁護し、現代アートを代表するアーティスト達は署名活動を行った。パルマ・ブカレッリは告発に対して次のように答えている。
ここでも一刀両断。
教育大臣は「ピエロ・マンゾーニの作品は国際的に芸術と認められた作品」と発言し、ひとまずことなきを得る。
しかし今度は、国立現代美術館の館長は、公金を使ってピエロマンゾーニの作品を購入したとして、横領の罪で刑事司法当局に告発される。
裁判にかけられるが、無論、無罪となる。
ただでさえ女性であるために目立つのに、恐れずに次から次へと、革新的な展示会を催し、そのたびに世間を騒がせるブカレッリ館長。百戦錬磨。全勝である。
国立近代美術館
以前にこのように質問されたことがあった。
イタリアでの現代アートを取り巻く状況をどう考えますか?
イタリア中から注目を浴びたブカレッリ館長の美術館には、ローマだけでなく、各地から人が訪れるようになる。活躍している現代アートを自分の目で見るために、その傾向を知るために、若いアーティスト達も多く来館する。
ブカレッリ館長の休むことを知らぬ精力的な活動で、来場者数は年々増えている。それにともない、寄進者も増え、まさに、彼女がそうありたいと願っていた、豊かな美術館、文化の中心である美術館を作り上げることに成功した。
わたしの美術館は、ただ作品を鑑賞するだけでなく、学校のように、なにかを学び、人々と直接にコミュニケーションが取れる場であることを望んでいます。
ジュリオ・カルロ・アルガンもあとに続く。
いまの美術館は、過去の作品を保管して鑑賞する場所ではなく、試すところであり、参加するところであり、学ぶところです。
カルロ・アルガン著作の美術史は、現在でも高校の美術の教科書に認定されている。
パルマ・ブカレッリは、30年間、精一杯活動をしたのち、1975年に美術館を後にする。
在職中にパルマへ向けられた質問。
今世紀(1900年代)前半の代表的と思われる画家10名を挙げてください。
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家庭を持たないんですか?
子供は欲しくないですか?
パオロ・モネッリとの関係は?
ジュリオ・カルロ・アルガンとの関係は?
イタリアで一番エレガントな女性と呼ばれる、近代美術館の女館長は、好奇の目で見られ、こんな面白くない質問を向けられることも少なからずあったが、「常に身近にいて、常に愛しているのは、わたしの愛犬ですの。」と笑顔で答えるのであった。
古き良きローマであり、昔の慣習にしばられたローマで、国際的に現代アートの世界を広げたパルマ・ブカレッリ。
前回で紹介した通り、彼女が53歳のときに、長年の付き合いだったパオロ・モネッリと結婚する。結婚後も、しばらくは美術館にある自分のアパートへ住み、別居生活を望んだらしい。
パオロの看病が必要になったときに、彼のもとへ引っ越しをする。パオロは93歳、パルマは88歳で、人生の幕を閉じる。
あとがき
ミラノのヴィットゲンス館長と、ローマのブカレッリ館長。
同じ時代に生き、同じ戦中戦後の怒涛の体験をした、まったく個性の異なるふたり。このふたりが、イタリアに残した功績は大きい。
同時に、この偉大なふたりの人物像が、歴史に出てこないのが残念でたまらない。彼女達を知っているのは、イタリアでも少数であろう。
イタリアの文献を探し回り、読み回るのは大変だったけど、アートを鑑賞するときに、心の片隅に、このような人物がいたことを思い出して頂ければ、心から嬉しく思います。
アートと生きた、女性の戦士たち。ローマ編
記事リンク
第1話:パルマ・ブカレッリ
第2話:キャリアの第一歩。
第3話:時間との勝負。
第4話:聖天使城。
第5話:パルマという女性。
第6話:パルマの進撃。(本編)
最後までお読み頂きましてありがとうございます。
これにてシリーズは完結です。
創作大賞にも応募しています。ぜひ応援をお願いします。
ふたりの館長シリーズが長くなり、重く感じられた方もいたかと思います。
次回は軽めの話題を投稿する予定です。
来週は忙しいので、7月下旬からまた再開します。
次回もお立ち寄り頂けますと、嬉しいです。
本当に、最後までお付き合いくださりまして、ありがとうござました!
ローマ国立近代美術館
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