私はあなたのことを知らない。
自分の見えない世界があるということを、理解しているということ。なんとなく、それが生きていく上ではとても大切なんじゃないかと思っている。
こんな話を聞いた。
とある臨死体験をした人のお話。
人間が天国に行くとき、神様からポイントを貰えるらしい。どれだけポイントを貰えるかどうかは、善い行いをしたとか、悪い行いをしたとかで判断されるのではない。どれだけ新しいことに挑戦したか、なのだそう。
もちろん何でもかんでも挑戦やら冒険やらすればいいとは思わないし、挑戦が人生の全てだとも思わない。
私がそれで腑に落ちたのは、神様にだって人間の善し悪しは決められないということ。
この世界には、"絶対的に"正しいことなんてないんじゃないかと思っているのです。
そんなこと言ったら警察とか検察とかどうなってしまうんだって言われそうだけど、それは少しでも悲しむ人を減らす、もしくは癒やすために必要な仕事で。
でも正直、彼らが絶対的に正しい仕事をしているのだとしたら、政治による陰謀とか、そういうのなくなるはずだけど、きっと今もあるはずだから。
ものすごく凶悪な事件の容疑者がいたとして、どう考えても許せないと思うときがあっても、ふと、そんな人間にも必ず過去があるのだということを考えてしまう。
わたしにも、世界の多くの人にも、見えていない過去が。
自分は関係ない、じゃなく、私の生きている地球の上で、もしかしたらどこかで繋がっていたかもしれないと。
もっと身近に考えれば、普通に歩いてて、急にぶつかってきた人がいて、謝りもせずに去って行かれたとき。
なんじゃあの人!!って一瞬モヤッとするのはしょうがないとして、でももしかしたらその人も、とんでもなく重大なこと、例えばなんだろう、パートナーの子供が産まれそうとか?で一分一秒を争う事態なのだとしたら、それはそっちを応援したい、と思う。
知らんけどね。
まあその「知らんけど」で片付けられる想像をすることで、つまり自分が見えていない世界を理解しようとすることで、自分自身のモヤモヤもすっきりできたりする。
「知らない」「見えていない」ということは時に恐怖でもあるし、過ちを犯してしまうこともあるけれど、時に自分自身を救うことでもあると思う。
"この地球で絶対的に正しいことリスト"なんてものが学校で配られようものなら、どれだけ恐ろしいことか。それは、そこで想像することを止めなければならないということだ。
「215条 オムライスは薄焼きの卵に包まれていなければならない」
とかいう"絶対的オムライス"があろうものなら、それはオムライスの可能性を閉じ込めてしまう。
オムライスだってたまにはトロトロの半熟卵に包まれたいときだってあるだろうし、時には暑苦しくて包まれたくないときだってあるでしょうに。
なんだか話が逸れそうですが、つまり私が言いたいことは、
この世界には自分の見えていない部分がほとんどで、どこかで繋がりがあったりもする。
そこに何があるかを想像すること、たとえ全く理解できないとしても、理解できないということを知るだけでも、意味のあることだと思うのです。
"絶対に"悪いとか、"絶対に"間違ってるとかで、誰かを責め続けることも、縛り付けることも私は違うと思うし、そうやって同時に自分自身も決めつけてはならないと思うのです。
とはいえ人間なので、誰かを責めたり、恨んだりしていないと立っていられない時もある。触れたら電気が走りそうなくらい、怖い顔をした人も歩いている。
でも、そんな人と人が繋がって、今の景色がある。
考え続ければキリが無いけど、誰かの感情はそのまた別の誰かの感情によって作られたもので、その行く先には私がいたりする。
私は目の前の人を出来るだけ、理解したいです。
押し付けることも、決めつけることも、問い詰めることも、したくない。
私がやっているヘアメイクの仕事は出来事としては小さいかもしれないけれど、その一瞬でも誰かの力になったり、励みになってもらえればと思う。
その人の笑顔が、私の見えない誰かの笑顔を作ることを願う。
綺麗事、と済まされてしまうかな、
でもそれでいいです。
他人にどう思われても、私は闇の中にも光があると信じて生きるほうが、楽です。
生き方の話になっている?笑
ずっと語ってしまいそうですが、朝井リョウさんの
『正欲』を読んでずっとなんとなく思っていたことがはっきりと輪郭がみえた気がしたので、ぶわーっと書いてみました。
この本、沢山の人の元に届くといいな。