開高賞受賞作『空をゆく巨人』5章までを公開
3月31日までの全文公開期間を終えました。「99の感想」プロジェクトでは、たくさんの『空をゆく巨人』の感想を投稿いただきました。本当にありがとうございました。引き続き、5章までは読んでいただけるようにnoteに残したいと思います。
「全文公開」は終わっても、あの開始時の変わらず、「私の本屋さんに立ち読みに来て欲しい」という思いを持ち続けています。
以下、全文公開時のメッセージから読んでいただけると嬉しいです。
川内有緒 (4/1/2019)
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noteでの全文公開に際して (11/16/2018)
かつて、自宅の近所に何時間でも立ち読みさせてくれる小さな書店があり、私は小学生の頃からそこに入り浸り、何冊も本を読みふけっていました。その書店はいつしかなくなり、いま立ち読みができるような街の書店はだいぶ少なくなりなりました。現代ではどうやって本と出会うのでしょう?
もしかしたら、ウェブが現代の立ち読みなのかもしれない、紙の上ではなくとも昔のような本との出会いがあるかもしれないと思うようになりました。そこで、かつて日本中にあったたくさんの街の本屋さんに感謝をしながら、『空をゆく巨人』を全文公開してみます。ここが私の小さな本屋さん、よかったらお好きなだけ立ち読みにきてください。
この本の中には、たくさんの夢追い人が出てきます。「人類初」といった壮大な夢もあれば、個人的な小さな願いもあります。実現に200年以上かかる夢もあります。夢を見ることは簡単ですが、追いかけることは難しい。その難しい道を喜びとともに歩む人たちに触れることで、私も夢の翼の広げ方を思い出せた、そんな気がします。もう一度、夢を見たい。もう一度夢の見方を思い出したい。そんな人にこの本を読んでもらえたら嬉しいです。
まずはプロローグから。
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プロローグ
空気が澄んだ秋の夕暮れ、八人の日本人がニューヨーク郊外の国際空港に降り立った。片言の英語で入国審査場を通り抜けると、アジア系の男性が運転するヴァンに乗り込む。ヴァンは、マンハッタンとは反対方向、北部ニュージャージーに向かった。
夕闇迫るなか、車は木立のなかに佇(たたず)む邸宅の前で停まった。巨大な四角い積み木をランダムに積み重ねたような、独特の造形のカントリーハウス。奇抜な外観でありながら、木材や石が多用されたその家は、アメリカの田舎町の風景にもよくなじんでいた。
なかには、数十人が集えるホールや三つのベッドルームがゆったりと配置され、大きなピクチャーウインドーからは、庭の木立がまるで風景画のように見えた。ガラス張りの廊下の先には、ゲストウイングがあった。日本人たちは、そこに準備された多数のベッドから、それぞれ好きなものを選んだ。
八人のなかには、北極に行ったことがあるほど旅慣れた人もいれば、五〇代で初めてパスポートを取得した人もいた。女性はひとりだけで、くっきりとした目鼻だちのきれいな人だ。残りは五〇代から六〇代の作業着がよく似合う無骨な男たちだった。
もともとは馬牧場だったこの土地に邸宅を設計したのは、建築界の鬼才、フランク・ゲーリー。彼を世界的に有名にしたのは、うねるような流線形のフォルムが特徴的なグッゲンハイム美術館ビルバオ分館(スペイン)だろう。二〇世紀建築の傑作と評されるこの建造物が完成すると、さびれていた工業都市はアートの街としてみごとに息を吹き返した。
しかし、このカントリーハウスを特別なものにしているのは、その個性的な外観だけではなかった。訪問者の目を奪うのは、家のあちこちにかかる巨大な絵画。シマウマの群れを描いた一作はホールの天井までぴったりと収まり、あたかもこの壁のために制作されたように見えた。
本来ならば美術館にあってもおかしくない作品——。それなのに、八人は絵画には目もくれず、タバコに火をつけ、冗談を言いながらスーツケースを開いた。そこに詰められていたのは、大量の日本食。納豆、味噌、カレールー、海苔……。
翌朝、彼らは草原のような庭に出た。
「おーい、そろそろ、はじめっぞ」
髭(ひげ)を蓄えた作業着姿の男性が号令をかける。庭の木々は紅葉し、落ち葉が風とともに降り注ぐ。
——球根を植えなくちゃ、来年の春に間に合うように。
長い黒髪をひとつにまとめた女性は思った。
暖かな日差しのなか、ひとりはショベルカーに乗り込み、もうひとりは雑草を刈り始めた。他の数人は、日本から輸送した古材を確認し、庭の隅で朽ちかけた馬小屋をどう使おうかと検分する。
八人は、ある特別な庭をつくるというミッションで、ここに来ていた。その名は「いわきの庭」。しかし、このなかに庭師はひとりもいなかった。彼らは、会社経営者、カメラマン、潜水士、電気技師、事務員と、その職業や背景はバラバラだ。共通点は、彼らの大半が福島県のいわき市で生まれ育ったこと、そして一部の美術関係者に「いわきチーム」と呼ばれていることだった。
はじめに
本書は、国籍も職業も生き方も異なるふたりの男の人生と、彼らが築いてきた友情、そこから生み出されたいくつかの「美術作品」を追ったものである。
ふたりのことを知ったころは、一冊の本として書くべきかどうか、いや、書けるかどうかとずいぶん迷った。どちらもその生き様はあまりに型破りで、自分の手には余るだろうという予感もあったし、また、「国境を越えた友情」などというありふれたテーマはノンフィクションとしてどうなのか、というのも正直な気持ちだった。
それでも私は、ふたりの強烈な個性に惹(ひ)かれ続けた。
ふたりのうちのひとりは、蔡國強(ツァイグオチャン)。日本では「さい・こっきょう」という呼び名で知られる現代美術界の巨星である。中国福建省に生まれ、文化大革命の時代に育ち、一九八六年、二九歳のとき日本に移り住んだ。東京と茨城県で九年を過ごし、その後はニューヨークを拠点に作品制作を続ける。来日当初、蔡はまったくの無名で、どこにでもいる中国人留学生のひとりだったが、火薬の爆発を使って描く「火薬画」や野外での爆発イベントで一躍有名になり、いまや現代美術界の世界的スーパースターとなった。
もうひとりは、志賀忠重(しがただしげ)。福島県いわき市の農家で生まれ育ち、六〇代後半となった今もそこに暮らす市井(しせい)の人だ。小さな企業を経営しており、カー用品などの販売事業で財を成し、面倒見がよく人望も厚い。好奇心も旺盛で、小型飛行機の操縦など多くの趣味を持つが、アートへの興味はゼロで、用がなければ地元の美術館にも足を運ばない。
そんなふたりが、八〇年代の終わりに出会い、数々の「作品」を世に生み出してきた。蔡がアイデアを出してスケッチを描き、志賀とその仲間(「いわきチーム」)がそれを具現化するという不思議な二人三脚である。
ふたりが生み出した作品のうち、最大のものが「いわき回廊美術館」だろう。私がその存在を知ったのは、二〇一五年のことだった。そのとき私は、旅をテーマにネット記事を書くために、面白そうな取材先を探していた。ちょうど福島県郡山(こおりやま)市に行く用事があり、ついでに寄れるところ、という条件で見つけたのがそこだった。東日本大震災のあとにつくられた野外施設で、入場は無料、営業時間は「夜明けから日没まで」。
いわきか、いいかも——。いわき市は、私の母の故郷で、高校生のころまではよく行っていた。しかし、祖父の葬儀を最後に自然と足が遠のき、気がつけばもう二五年も足を踏み入れていない。よし、ここにしようと電話を手にした。
何回かのコールのあと、「もしもーし!」と年配の男性の元気な声が聞こえてきた。私が取材の趣旨を説明し始めると、いわきりのその人は、「いんやあ、取材はダメだなー」と即座に断ってきた。
「取材されて、人がいっぱい来ても迷惑なんだ。ここは、駐車場もトイレもねんだ」
は? その取りつく島もない返答を聞いて、すっかり面食らった。人が来ると困る「美術館」っていったい何なの?
ダメと言われると、余計に行ってみたくなるのが人の常である。
「大丈夫です。来られたら迷惑だって思いっきり書きますから!」
そう反射的に食い下がると、
「はっはっはっ! 面白いこと言う人だねえ。じゃあ、いいよ」
と男性は答えた。何だか自分でも不思議なほど、この人に会ってみたくなった。
約束の日、東京から特急に乗り、いわき駅でタクシーを捕まえた。山の麓(ふもと)にある美術館の入り口に着くと、「おっちゃん」と呼ぶのが似合いそうな、ずんぐりとした男性が作業服姿でベンチに座っていた。それが、電話に出た人、志賀忠重だった。
「あー、何だっけ? 取材? そういや、そんな話あったよね」
どうやらアポをすっかり忘れていたようだ。
「まあ、まずは、お茶飲むげ? 大丈夫だあ。ゆっくり案内してあげっから、急ぐことねえ。まずはお茶飲みな」
志賀は、語尾が上がるゆったりとした口調でそう言い、人懐っこい笑顔を浮かべた。
そのお茶を口にしてたまげた。鳥肌が立つくらいにおいしいのだ。
「鉄観音(茶)だぁ。いつも中国から送ってもらってんだ」と当たり前のように言う。
腰を落ち着けると、周辺に広がる絶景に目を奪われた。はるか遠くまで田んぼが見渡せ、鳥と風が悠々と渡っていく。山の斜面には、木製の長い回廊がうねうねと頂上に向かって延びていた。何だか、万里の長城か巨大な蛇みたい——。
お茶を飲み終えると、山を歩きながら数時間にわたり話を聞いた。それは、「作業服のおっちゃん」からは想像しがたいスケールの話で私はすっかり頭が混乱してしまった。何なんだ、ここは? そして、この美術館は世界的アーティストの蔡國強が設計し(設計図は手書きのドローイング)、四〇〇人のボランティアによってつくられたと聞かされた。さらに、周囲の山では九万九〇〇〇本という途方もない数の桜を植える一大プロジェクトも進行中だという。発案者は、志賀本人だ。福島第一原発事故で汚染されてしまった故郷に世界一の桜の名所をつくる、と言うのだが、プロジェクト終了予定は二五〇年後だと聞いて、のけぞった。
「えー、もうそのころには生きてないじゃないですか」
「そんなん関係ないよねー」
志賀は飄々(ひょうひょう)と答えた。それにしても、復興が目的ならば、どうして大勢に見てもらいたくないんだろうと、ますます不思議だった。
ようやく取材がいち段落したのは、山の向こうに夕日が沈むころだった。志賀は再びお茶を淹れながら、「俺は冒険家のサポートで、北極にも行ったことがあるんだ。その人は、世界で初めて北極を単独徒歩で横断したんだよ」と、新たなエピソードを披露し始めた。もはやメモをとる気力は残っていなかったが、「冒険ですか、そりゃあ、いいですね」と相槌(あいづち)を打った。私は、子どものころから、冒険への過剰なロマンを抱いていた。「私、生まれ変わったら冒険家になりたいんですよー」
そう聞くと志賀は、「いんや、川内さん」とじっと私を見つめた。
「一歩を踏み出したら、それが冒険なんでねえの? 川内さんはもう冒険をしてんだよ」
その言葉は、胸の真んなかあたりにストレートに命中した。
私は、二〇一〇年の春に、三八歳で国際公務員を辞して、フリーランスの物書きになった。それは、大学院卒業後に一歩ずつ築いたキャリア、そして安定した収入を手放すことを意味した。後悔はしていなかったが収入は不安定で、娘はまだ〇(ゼロ)歳だった。
そっか、もう冒険をしていたのか——。
ふいに涙がこみあげてきて、ポロリとこぼれた。志賀のひと言には、既定のレールから外れた人生をまるごと肯定するような優しさがあった。
それから、いわきに通うようになり、『指輪物語』ほどの長さもあるような話を聞き続けた。ただ、楽しかった。それは、商売の話だったり、例の「蔡國強」の若いころのことだったり、世界の美術館の裏側だったりと、その内容は様々だったが、とにかく毎回必ずや予想しない展開が待ち受け、まったく飽きさせない。
それにしても、美術館にあるはずの「アート作品」がこんなにリアルに人生に結びついているなんて——。アートってこんなに面白いものだったのか。
そのうちに、噂のスーパースター、蔡國強も美術館にやってきた。訥々(とつとつ)とした日本語を話す蔡は、想像していたカリスマとは違い、冗談と記念撮影が好きで、気遣いのある人物だった。蔡の話を聞いていると、扉の隙間から、「世界的アーティストの生きる世界」という華やかなパラレルワールドを覗(のぞ)いている気分になった。同じ時代を生きているというのに、私と彼ではまったく異なる世界に棲んでいる。いつしか私は、扉の向こうが気になってしかたがなくなった。
ある日、蔡と志賀は、私の目の前で、新たな「作品」の構想を話し合い始めた。それを見て、あれれ、待てよ、と思った。このときまで私は、志賀がアーティスト・蔡の作品づくりに参加、もしくは協力しているのだと思い込んでいたが、それは誤った理解だったと気がついた。彼らは、とてもフラットな関係だった。
——そうか、一緒につくってるんだ。
一見すると何もかも違うように思えるふたりは、実はよく似ていた。そして、もうひとつ。パラレルワールドに見えた世界も、本当は自分の足元と地続きなのだと気がついた。
書いてみよう、ふたりのことを。別々の国に生まれ、大人になり、出会い、世界を旅し、桜に囲まれた美術館ができ、今日に至るまでの三〇年間を。そう決めたのは、初訪問から一年半後、震災から六年後の三月だった。
それは、「震災を風化させたくない」という背筋を伸ばしたミッションなどではなく、もっと個人的なモチベーションだったように思う。私も彼らのように、常識や限界という内なる境界線を越え、のびのびと全力で生きてみたかった。誰かに「何だ、あいつは?」と思われても気にとめず、空に向かってジャンプしてみたかった。
蔡が長年温めてきた作品に、《大脚印—ビッグフット》と呼ばれるものがある。それは、大空を駆け抜ける巨人の足跡を花火で表現したものだ。二〇〇八年の北京オリンピック開会式で披露されたので、覚えている人も多いかもしれない。私から見ると、ふたりこそがビッグフットだった。ふたりの物語には、友情やアート、ひいては「文化」というものの底力を感じさせる、正体不明の磁力とざらざらとした確かな手触りがあった。
いったん書こうと決めると、「超」が「多忙」の前に三個もつくような蔡を追いかけて、京都の講演会やニューヨークにある蔡のスタジオ、そしてニュージャージーの自宅にまで押しかけた。さらに、志賀や蔡の家族や友人、「いわきチーム」の面々、ボランティアの人々、美術評論家やキュレーター、美術館職員、ジャーナリストなど約四〇名からも話を聞かせてもらった。
そして、書籍、図録、雑誌や新聞記事、手記、映像や写真などを通じて、ふたりが生きてきた二〇世紀中盤から現在までを追体験していった。そこには、文化大革命も、いわきの海も、ゴビ砂漠も、世界貿易センタービルも、北極も、東日本大震災も出てきた。
蔡が「キノコ雲の世紀」と呼んだ二〇世紀が終わり、今年で一八年。世界にはいまだ核兵器が溢れ、内戦やテロが続く一方で、テクノロジーが人間同士のリアルな交流を薄め、バーチャルと現実の境目はますますに曖昧(あいまい)になってきた。
日本はまだあっけらかんと平和にも見えるものの、度重なる災害や貧困や格差——いや、そんな大げさなものではなくとも——、社会をバラバラにするたくさんのものに囲まれ、人々はかつてない分断のなかで生きているようにも見える。そんないまだからこそ、アートが生み出したリアルな人間物語を伝えたい。
まずは、生まれながらの商売人、いや、いわきのすごいおっちゃん、志賀忠重の話から始めたい。
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空をゆく巨人 目次
プロローグ
はじめに
第一章 生まれながらの商売人 いわき・一九五〇年
第二章 風水を信じる町に生まれて 泉州・一九五七年
第三章 空を飛んで、山小屋で暮らす サンフランシスコ・一九七六年
第四章 爆発する夢 泉州・一九七八年
第五章 ふたつの星が出会うとき 東京・一九八六年
第六章 時代の物語が始まった いわき・一九九三年
第七章 キノコ雲のある風景 ニューヨーク・一九九五年
第八章 最果ての地 レゾリュート ・一九九七年
第九章 氷上の再会 レゾリュート・一九九七年
第十章 旅人たち いわき・二〇〇四年
第十一章 私は信じたい ニューヨーク・二〇〇八年
第十二章 怒りの桜 いわき・二〇一一年
第十三章 龍が駆ける美術館 いわき・二〇一二年
第十四章 夜桜 いわき・二〇一五年
第十五章 空をゆく巨人 いわき・二〇一六年
エピローグ いわきの庭 ニュージャージー・二〇一七年
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