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【国語教育】現代文は何を勉強すれば良いの??

前回のnoteでネット上の受験国語コンテンツについてあれこれと指摘をしました。ネット上の情報には様々な観点から注意しなければならないというお話です。宜しければご参照下さい。

【言論】ネット上の受験国語コンテンツについて|Lとーる @arimuraToru|note(ノート)https://note.mu/arimuratoru/n/n26559a6adc80

さて、今回はそんな記事を書いた僕が、自分の思う大学受験現代文の勉強法を、ネット上で発信していきます。笑
これほどのブーメランは中々滅多に見られるものではありません。(いやまあブーメランのつもりはないんだけどね🤗)
「あれ、ネット上の受験コンテンツは鵜呑みにしちゃいけないんじゃないの?」と思った方は是非前回のnoteをご覧下さい。
ネット上の全てのコンテンツを悪だと断じている訳ではなく、よろしくないコンテンツの特徴をいくつか紹介し、それらにあてはまるものに警戒しようという旨の記事です。
この記事は正真正銘の優良記事ですよ😊
お金も一銭たりとも僕に入ってきませんから、記事の価値を背伸びして見せる気はありません。役に立つかどうかは読んだ方自身の判断にお任せします。

さて、前置きが非常に長くなってしまいました。本題に入ります。

前回のnoteの最後で

○どうして僕が「読解の方程式」を批判するようになったのか?
○どうして「読解の方程式」がもてはやされているのか?
○受験現代文では何を学べば良いのか?

の三点の疑問が残りました。

まずは一点目の

○どうして僕が「読解の方程式」を批判するようになったのか?

についてその経緯を述べたいと思います。

簡潔に申し上げるとするならば、「読解の方程式」を使った現代文の読解は

何一つ面白くない

という点に尽きます。このテクニックを使って機械的に文章を読んで問題を解いていくことの何が面白いのか全く理解できません。もしそこに知的な面白さを見出だしている人がいたら是非教えて欲しいです。

まあ高校生の頃の僕にとっては大学に受かることがひとまずの至上命題であり、「面白くないからやらない」という訳にはいかないのが勉強の悲しき一側面です。

ですがそれにしても高校生向けの授業は「できること」にのみモチベーションを見いだそうとしているものが多すぎる。

「できないからつまらないんだ、今だけ頑張って、努力してできるようになれば、そのうち勉強が楽しくなる。」

完全に間違った考え方だと断ずるほどではなく、そういう側面もなくはないのだけれど、僕だったら、

「じゃあ評論の本来の魅力は?」
「小説の本来の魅力は?」

と言いたくなります。テクストの本来の面白さを伝えないで何が国語だという話です。成功体験は教育の副産物に過ぎず、本質的には「勉強が好きになること、強いられなくても自分で勉強をやりたくなり、また自分なりの勉強の方法を持っている」学習者を育成することが教育の目的だと考えます。

成功体験で勉強が好きになるというケースは人によっては十分ありえますが、そういう人はまた別の、より強烈な成功体験を求めて学問から遠ざかったり、自分なりの学問へのアプローチや興味を持てなかったりするのではないでしょうか。

僕は大学3年生になった頃から次第にこの疑問を持つようになり、「読解の方程式」に代わる別の勉強法、それもテクストの魅力を高校生が感じられるような勉強法を模索するようになりました。

さて、それでは次の疑問点である

○どうして「読解の方程式」がもてはやされているのか?

について持論を述べたいと思います。
僕はこの現象の原因を国語教育の有する固有の特徴とそれに対する批判と改善の流れの中に見いだしています。

国語の有する固有の特徴とは、

「先生が解釈を一方的に押し付ける授業」

が嫌われる傾向が強い点です。これは読者の方にも感覚的に理解していただける要素なのではないでしょうか。先生がドヤ顔で語る解釈を聞かされてうんざりした。自分なりの解釈を認めてもらえなかった。そんな経験がある人も少なくないとおもいます。

この現場の傾向について、国語教育界は長い間批判を続けてきました。

・そもそも国語は内容知を学ばせるものではなく、方法知を学ばせるものである
・生徒が自由に解釈し、教師の個別の解釈の押し付けは不要である

というのがここ十数年の国語教育の大きな流れです。

だがこの項目の1つ目を現場はうまく授業にとりいれることが出来なかったのではないでしょうか。

方法知とはつまり、教材の内容ではなく論理を読ませ、個別の教材にとどまらない普遍的な読みの力を獲得させるという目標観のことです。

「論理を読ませる」だったり、「普遍的な読みの力を獲得させる」だったりを達成するのはすごく難しいことです。現場や大学受験業界はこの方向性においてひとまず一定の成果を挙げうる「読解の方程式」を指導に取り入れたのではないかと僕は推察します。

しかし、この流れは同時にいくつかの問題を生みます。

例えば前回お話しした「何を勉強すれば良いのか分からない」生徒と、その心理を利用した眉唾受験テクニックの氾濫。

あるいは例えば、「読みのアナーキー」とも言うべき教室の状態です。みんな違ってみんな良い。読みに正解はない。という発想に基づき、生徒の誤りを教師が正せずにクラス全員の読みが混沌として統一性や妥当性に欠ける状態を生んでしまう現象を指します。

困った現場や受験業界のすがった藁こそ「読解の方程式」だった訳です。

さて、「読解の方程式」批判に再び多くの文字数を割きました。

いよいよ最後の問いである

○受験現代文では何を学べば良いのか?

についての持論を述べたいと思います。

結論から言うとそれは「人文科学に関する基礎的な知識や考え方」を学ぶことです。

これが高校生の学ぶ国語の内容において大きく欠落していると僕が感じている部分です。
場合によっては「現代文の語彙・キーワード1000」なんて参考書で丸暗記させてる場合もあります。(むしろ多数派か?)
しかし、「考え方」をどうして暗記できるというのでしょうか。人文科学の発想は「語彙」などというレベルを越えた「概念」や「価値観」の枠で語られるべきものです。

ですが、人文科学の教養を身に付けさせる授業を行おうとすると必ず出てくる批判があります。それは、

「そんなものは社会の授業であって国語の授業ではない」
「国語では内容知を教えるべきではない」

などというものです。先にお話しした国語教育の価値基準の変遷の中で語られてきた文脈における批判です。

まあ社会の守備範囲といえば守備範囲なのですが、例えば理系のカリキュラムでは哲学や言語学の考え方を十分に学べるだけの社会の時間は用意されていません。

それに、少なくとも「論理の獲得」という黄金の看板を掲げた「読解の方程式」に比べれば、生徒が楽しく文章を読んで学べるという意味でいくらか真っ当です。どう真っ当かはこの後で詳しくお話ししますが、黄金の看板を果たして誰が喜ぶのかという事をここでは改めて強調しておきます。

さて、要は高校国語の現代文指導が大学でのリベラルアーツ教育の超入門編を担おうというのが僕の意見なのですが、これは先述した「テクストそのものの面白さ」をまさにダイレクトに学習者に見せてくれます。(厳密には「テクストの内容・事柄」であって、「構成・論理」とは区別されるべきですが。)そういう意味では読書教育的な側面が強いかもしれません。

ここで話を受験に戻します。

読者の方にひとつ質問をしたいのですが、皆さんは日本語で書かれた医学書を正しく読めますか?あるいは物理学の専門書、あるいは法学の専門書の内容を全て的確に捉えることは出来るでしょうか。ご自分の専門外の分野のあらゆるテクストを的確に読むことができますか?

多分ほとんどの方が出来ないと答えると思います。僕もできませんし、高校の先生も皆できません。普遍的な読み方や論理は、ほとんど存在しないに等しい。あらゆる専門書の内容が読めたのはあのダ・ヴィンチくらいなのではないでしょうか。

さて、ここで重要なのは、日本語で読み書きができる能力と日本語で書かれたテクストの内容を捉えることができる能力は別物だと言うことです。

あるテクストの有する固有の分野・内容の知見を一切持たずにテクストを読むことはできません。
当たり前のように読んでいる童話や絵本、小学生向けの説明文の中ですら、我々がただ初期段階で身に付けているにすぎない知識の数々を大前提とした文章が展開されます。

高校生が読む評論などは特に、リベラルアーツ系の既得知識を大前提としています。それらの内容を知らない状態では評論は読めないと言うことになります。小説はまだ知識を常に要求してはきませんが、それでもあるレベル以上の小説であれば人文科学の知識を前提とするものが多くあります。

これら全てに蓋をして、

「これは大学の勉強だから」
「これは社会の勉強だから」

と言うのは、楽ですが思考停止です。

新学習指導要領の述べるところの高大連携やカリキュラムマネジメントの理念から考えても、リベラルアーツを現代文で学ぶ事にはある程度の妥当性があるのではないでしょうか。

受験現代文において得点アップに一番手っ取り早く、しかも今後の役にたって、評論や小説の面白さに関しても実感できる勉強法としてこれを提案したいと思います。

さて、現代文における勉強法について、「リベラルアーツを学べ!!」と述べてきました。

僕のnoteではこれからそれらの知識や考え方について少しずつ紹介していきたいと思っています。

ちなみに、僕は現代文の勉強の全てがそのような前提とされる知識の獲得にあると言いたい訳ではありません。
方法知についての学習法も、特にナラトロジーにおける「語り」の概念からアプローチしたものを今後noteで提示したいと思います。

皆様の良き読書生活、大学受験を応援しております😊以上本日のnoteでした。

追記
文体をですます調にしてみましたがどうでしょうか。ただでさえ小難しいことを言う機会が多いので、少しでもマイルドな読感になればと思ったのですが‥。